伝記
李元昊は、西夏の初代皇帝である。廟号は景宗、諡号は武烈皇帝。拓跋元昊、趙元昊、嵬名元昊、嵬名曩霄などの名でも知られ、西夏王朝の創始者にして、その王朝随一の名君と評される。1003年6月7日に生まれ、1048年1月19日に没した。タングートの族長の家系に生まれ、西平王李徳明の長男にあたる。母は衛慕氏とされる。若いころから智勇にすぐれ、教養も豊かで、有能な武将であり、タングートのために国を建てることを望み続けたと伝えられる。
1032年、父の死によってタングートの指導者となり、西平王の地位を継いだ。早い時期に、宋から与えられていた趙の姓を廃して嵬名の姓に改めた。さらにタングートの人々の生活を改める改革を進め、男子に髪を剃ることを命じ、従わない者は公開の処刑にするとした。服装や文字も改めさせたという。宋に対しては、漢人の協力者である張元や呉昊の助けを得て強硬な態度をとり、最盛期には50万の兵を擁すると称した。1034年には環慶路を攻めて宋の将軍斉宗矩を捕らえている。続いて目標を西に転じ、1036年ごろから回鶻(ウイグル)の勢力と戦い、甘粛の広い地域を奪った。タングートはその後、河西回廊を191年にわたって支配することになる。
大慶3年(1038年)までにタングートの諸部族を武力でまとめあげると、元昊は皇帝に即位し、国号を大夏とした。宋が西夏と呼んだ国である。都は興慶府(現在の寧夏回族自治区銀川市)に定められた。宋にならった官位制度の整備、学校を設けての教育の普及、軍備の増強など、国の基盤固めにも力を注いだ。漢人の助言者の力を借りて多くの官庁や行政組織をつくり、漢文の書物を自民族の言葉に翻訳させた。野利仁栄を用いて西夏文字の形成も進め、文化の向上に努めた。一方で、宋の風習をまねすぎることには強く反対し、遊牧の伝統的な暮らしの価値を説き、宋の贅沢品に頼ることを戒めたという。
宋とは何度も大勝を収めた。三つの大きな戦いに勝ったものの、宋の焦土戦術もあって損害は大きく、兵力は消耗した。宋との交易が断たれたことで経済的にも苦しくなり、天授礼法延祚7年(1044年)、夏が宋に臣従する形をとり、宋が夏に絹13万・銀5万・茶2万を毎年贈るなどの条件で和議を結んだ。同じ年に西夏と遼の間で武力衝突が起こると、西夏は宋・遼と対等の地位を得るに至った。
しかし晩年の元昊は酒に溺れ、西夏の政治を乱してしまった。皇后の野利氏と太子の李寧令哥を廃したことが禍となり、1048年、その李寧令哥に襲われた。宰相の没蔵訛龐も陰謀に加わっていたとされ、太子は剣で斬りかかったが、鼻を削ぎ落としただけだった。恐れた太子は没蔵訛龐のもとへ逃げたが、裏切られて刺客として突き出された。元昊はいったん生き延びたものの、数日後に傷がもとで世を去った。享年46。後宮には、母の兄弟の娘にあたる衛慕氏、野利遇乞の従娘である野利皇后、遼の興平公主耶律氏、没移皆山の娘で李寧令哥の元妻であった没移皇后、没蔵訛龐の妹である没蔵皇后らがいた。子には、野利皇后が生んだ李寧明、李寧令哥、李錫狸(早世)のほか、咩迷氏が生んだ李阿理がある。没蔵皇后の子の李諒祚(毅宗)は1047年に生まれ、元昊の跡を継いだ。ほかに、名の伝わらない娘も一人いたとされる。西夏はのちにモンゴルに滅ぼされ、国の名残のほとんどが失われて、西夏文字も途絶えた。
同じ年に亡くなった人物
- アダルベール (ロレーヌ公) (1048年没)
- ヴィポ・フォン・ブルグント (1048年没)
- アブー・カリジャル (1048年没)
- ビールーニー (1048年没)
- ダマスス2世 (ローマ教皇) (1048年没)
同じ地域に関係する人物
- チンギス・カン (1227年没)