伝記
ペタル・デリャンは、1040年の夏に東ローマ帝国支配下のブルガリア地方で起こった大規模な反乱の指導者である。ブルガリア皇帝(在位1040年〜1041年)に推戴され、ペタル2世とも数えられる。生年は確定できないが、11世紀初めの1000年から1014年のあいだと考えられ、没年は1041年と推定されている。もとの名は単にデリャンで、即位に際して、970年に没した聖なる皇帝ペタル1世にちなんで改名したのかもしれないとされる。
出自ははっきりしない。本人は、ガヴリル・ラドミール帝の子でサムイルの孫だと主張したが、反乱の指導者となった土地の者が、帝位を正当化するためにサムイルの孫を名乗っただけという可能性もある。ラドミールの子とみる説では、ラドミールとハンガリー王イシュトヴァーン1世の姉妹マルガレータとの結婚から生まれたとされる。母は身ごもったままサムイルの宮廷を追われたが、その後の経歴からみて、デリャンは生まれてからブルガリアで父のもとにいたのだろうという。1015年にイヴァン・ヴラディスラフがラドミールを殺し、1018年に東ローマ帝国がブルガリアを征服すると、デリャンは捕らわれてコンスタンティノープルへ連れていかれ、身元不明の貴族に仕える身になった。のちに脱出して母の国ハンガリーへ逃れ、そこからブルガリアに戻って、帝国への反乱を起こしたという。これに対し、土地の者にすぎないとみる側は、ラドミールを殺して帝位を奪ったイヴァン・ヴラディスラフが、身の安全のためにラドミールの子を生かしておくはずがないと論じる。
反乱の原因は主に二つあった。一つは、1037年にオフリドのブルガリア人大主教がギリシア語を話すローマ人に替えられ、ギリシア化が始まったことである。もう一つは、帝国が現地の人々に貨幣での課税を課したことである。反乱は広がり、反乱軍は北モラヴァ地方を押さえてベオグラードを解放した。デリャンはそこで楯の上に掲げられて皇帝と宣言され、ペタル2世を名乗った。サムイルの孫として正統性を認められ、ハンガリー王国からいくらかの支援も受けたかもしれないとされる。
デリャンはニシュとスコピエを取り、ドゥラッツォ周辺で反乱を率いたティホミルをいったん味方に引き入れたのち排除した。さらにテサロニキへ進軍し、そこに滞在していた皇帝ミカエル4世は敗れて逃れ、財宝をミカエル・イヴァチュに託した。ミカエル・イヴァチュは財宝の大半を城外のデリャンに渡した。テサロニキは帝国の手に残ったが、マケドニアやドゥラッツォ、ギリシア北部の各地はデリャンの軍に取られ、エピルスやアルバニアでもスラヴ人の反乱が刺激された。
勢いを断ったのは、従兄弟のアルシアンであった。アルシアンの父イヴァン・ヴラディスラフは、1015年にデリャンの父ラドミールを殺した人物である。アルシアンは宮廷で失脚して逃げてきた脱走者の体でデリャンの陣営に加わり、軍を与えられてテサロニキを攻めたが、包囲は解かれて敗れた。1041年のある夜の夕食の席で、酔ったデリャンはアルシアンに台所のナイフで鼻を削がれ、目をつぶされた。サムイルの血を引くアルシアンは、軍に皇帝と宣言されたものの、帝国への寝返りを企て、両軍が戦いに備えるなか敵方に走ってコンスタンティノープルへ向かった。そこで所領を戻され、高位のマギストロスの位を与えられた。一方、盲目となったデリャンはなお指揮を執ったとされる。
同じ年に亡くなった人物
- マスウード1世 (1041年没)
- ムハンマド (1041年没)
- ミカエル4世 (1041年没)
- 藤原公任 (1041年没)
- ホヴァネス・スムバト (1041年没)
同じ地域に関係する人物
- Feridun Bugeker (2014年没)
- イブン・ケマル (1536年没)
- Nimet Nevzad Hanim (1992年没)
- ヤシャル・ケマル (2015年没)
- マフムード・タルズィー (1933年没)