伝記
ホヴハンネス・スムバト3世は、アニ王国(バグラトゥニ朝アルメニア)の王である。父ガギク1世(在位989〜1020年)の長男で正統な後継者として、1020年に王位を継ぎ、1040年または1041年まで在位したとされる。没年は1041年とされる。
ガギク1世は高齢で1020年に死去した。権力は二人の息子、ホヴハンネスと呼ばれたスムバトと、アショト4世に受け継がれたが、継承をめぐって兄弟のあいだで争いが起こり、アブハジア王ゲオルギが介入した。その後、アルメニアの総司令官(スパラペト)ヴァフラム・パフラヴニと、ジョージア王の仲介で兄弟は和解したとされる。長子のスムバトは宮廷の有力者に支えられ、首都アニとシラク、周辺の諸州を得た。弟アショトにはセヴァン湖周辺など、ペルシアやジョージアに接する王国の南部・東部が与えられ、スムバトの死後にはその領地も継ぐことになっていた。また、ゲオルギは後になって一人の貴族の訴えを受けて軍を送り、スムバトが捕らえられて同行者は逃げ、追手が教会を略奪して十字架を汚したともいわれる。これに耐えられなかったアショトはビザンツに赴いて皇帝バシレイオス2世に助けを求め、軍勢と多くの贈り物を携えて戻り、いくつかの要塞を手に入れたという。いずれにせよ王国は分裂し、従属する諸王国は事実上独立して、バグラトゥニ国家は実質的に消滅した。ガギク1世はアルメニア王国の最後の強力な王であった。
この頃のビザンツ帝国は、ブルガリアに対する軍事的成功ののち東方へ関心を向け、アニ王国を帝国の一属州にすることを目指していた。アニ王国は10世紀末から衰え、908年にはヴァスプラカン王国が分離し、タシル・ゾラゲト、シュニク、ヴァナンド(カルス)がこれに続いた。帝国は国内に不和を生じさせ、内部から国を崩そうとした。949年にはテオドシウポリス(カリン)を奪い、966年にはタロンを征服した。1001年にダヴィド・キュラパラトが死ぬとタイクが帝国に移り、1021年にはセネケリム・アルツルニがヴァスプラカンを譲って帝国へ去った。こうした征服は、君主が領土を遺贈し、代わりに帝国内の別の土地を得る形で行われた。アニについても、そのような遺言にホヴハンネス・スムバトの署名が求められた。
国を破滅から救うため、ホヴハンネス・スムバトは総主教(カトリコス)ペトロス1世を団長とする使節をトレビゾンドの皇帝のもとへ送った。1021年、トレビゾンドでバシレイオス2世は、武力を背景に、アルメニアとジョージアの君主たちに遺言を強いた。ビザンツ側の史家スキュリツェスは、皇帝が圧力をかけて、スムバトの死後にアルメニア王国が帝国の一部となる旨の文書を求めたと記している。皇帝はスムバトの「思慮深さ」を称え、マギストロスの称号を与え、アニと大アルメニア州の終身支配者と認めた。その代わりに、死後に全土を帝国へ譲る旨を証する文書を要求した。アリスタケス・ラスティヴェルツィは、これをアルメニア滅亡の証文と呼び、スムバトがカトリコスに「私の死後、皇帝が私の都市と土地を遺産として受け取れるよう、文書を書いて遺言を渡せ」と命じたと伝える。トレビゾンドで結ばれた「遺言条約」は、アルメニア史にとって致命的なものとなった。アニ譲渡の知らせはアルメニアに遅れて届き、カトリコスのペトロス・ゲタダルツは、帰国をためらったという。
同じ年に亡くなった人物
- 藤原公任 (1041年没)
- ミカエル4世 (1041年没)
- ペタル・デリャン (1041年没)
- ハムザ・イブン・アリー・イブン・アフマド (1041年没)
- 遠征王ユングヴァル (1041年没)
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