伝記
ヤシャル・ケマルは、1923年10月6日にトルコ南部の村ギョクチェダムに生まれた作家である。本名はケマル・サドゥク・ギョクチェリといい、クルド系の家の出とされる。幼いころ、父が犠牲祭のために羊を屠っていたとき、刃物の事故で右目を失明した。さらに5歳のとき、モスクで礼拝中の父が養子のユスフに刺し殺される事件が起こり、その証言をしなければならなかった。こうした経験から吃音を発症し、12歳のころまで治らなかったという。九歳で近隣の村の学校に通いはじめ、母が未亡人となった家で育った。学校に上がる前から土地の吟遊詩人として知られていたが、母に認められたのは、八人いた兄弟の一人の死を悼む哀歌を作ってからだったという。
綿花畑で富農に雇われて働き、のちに代書人、ジャーナリストを経て作家になった。16歳のころから長く忘れられていた民謡や韻文を集めはじめ、1943年にそれを編んだ最初の著作『バラード』を発表した。トルコ軍に入ってカイセリにいた1944年には、初の小説『汚れた物語』を書いている。1950年には『赤ん坊』『店主』『メメトとメメト』が出版された。同じ年、共産主義的な活動をしたとされて投獄された。1951年にはアクダマル島で教会の取り壊しが始まるのを目にし、人脈を使って食い止めたとされ、この教会は2005年にトルコ政府によって修復された。その後イスタンブールの新聞に勤め、筆名を使うようになった。
1955年に出版した『痩せたメメッド』で国際的な名声を得た。領主に追われて山に逃げ込んだ伝説的な英雄を通じて社会の構造を批評した作品で、トルコ民族の叙事詩『キョルオウル物語』の系統を引くという指摘もある。これらの作品が評価され、1973年にはノーベル文学賞の候補になった。以後も『メメッド』の続編をはじめ、多くの長編とルポルタージュ、短編を発表した。簡潔で整った言葉と、アナトリアの田園の暮らしの抒情的な描写で知られ、オルハン・パムクと並んで同時代で最も有名なトルコの作家の一人とされた。ノーベル賞には、生涯にわたって有力な候補と見られ続けた。アタチュルクの言語純化運動に従い、トルコ語を文学の言語として再創造することを主張した。
政治にも深く関わり、1962年にトルコ労働者党に加わって、1968年にソ連のチェコスロバキア侵攻を受けて離れるまで、指導者の一人だった。1967年にはマルクス主義の雑誌を創刊した。1970年代後半の政治暴力の高まりを受けて、しばらくスウェーデンに移った。クルド人への抑圧を率直に語る知識人で、1995年にはドイツの週刊誌に寄せた、トルコ軍によるクルド人の村の破壊を訴える記事で反テロ法により起訴された。釈放されたが、のちに別の記事で、1996年に20か月の執行猶予付きの有罪判決を受けた。生涯に38の賞を受け、1984年にフランスのレジオンドヌール勲章コマンドール、2011年に同グランドフィシエを受章した。
2015年1月14日に呼吸不全でイスタンブールの病院に入院し、2月28日に集中治療室で亡くなった。モスクで営まれた葬儀には元大統領ギュルらが参列し、3月2日に最初の妻ティルダの墓のそばに埋葬された。妻アイシェ・セミハ・ババンと、養子の美術家アフメト・ギュネシュテキンが遺された。
同じ年に亡くなった人物
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- 大橋謙三 (2015年没)
- アルフレッド・ギルマン (2015年没)
- Hector Salva (2015年没)
- マーシャル・ローゼンバーグ (2015年没)
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- Sah Huban Sultan (1572年没)