HISTORICAL PERSON · 1041年没

藤原公任

平安時代中期の公卿・歌人で、関白太政大臣・藤原頼忠の長男。権大納言に至った。私撰和歌集の拾遺抄を撰して歌壇の第一人者となり、和漢朗詠集の撰者としても知られ、中古三十六歌仙の一人に数えられる。

生涯
1041年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

藤原公任は、平安時代中期の公卿・歌人である。藤原北家小野宮流の出で、関白太政大臣・藤原頼忠の長男にあたり、官位は正二位・権大納言に至った。祖父の実頼と父の頼忠はともに関白・太政大臣を務め、母は醍醐天皇の孫、妻は村上天皇の孫という名門の生まれである。天元3年(980年)2月25日、清涼殿で円融天皇が出御するなか元服し、異例の正五位下に叙せられた。同年7月には侍従に任ぜられ、その後も順調に昇進を重ねた。

ところが寛和2年(986年)に一条天皇が即位すると、父の頼忠は関白を辞し、藤原兼家が摂政となって政治の実権は小野宮流から九条流に移った。同い年の藤原道長は翌永延元年(987年)に一挙に従三位まで昇り、公任はあっという間に位階を追い越されてしまう。永延3年(989年)に蔵人頭となったものの、同じ頃に蔵人頭を務めた人々が早々に参議へ進むなか、公任は3年半も据え置かれた。参議になったのは正暦3年(992年)8月である。不満が募ったのか、正暦4年(993年)には関白・道隆ら藤原氏の公卿がほぼ全員供奉した大原野神社への行幸に参らず、一時は勅勘を受けて参内を止められた。一方で、道隆に反発していた弟の道兼とは親しく、正暦5年(994年)には道兼の養女と結婚している。

長徳年間(996年〜999年)の頃、公任は私撰和歌集『拾遺抄』を撰んだ。花山上皇が将来の勅撰集を編む際の目安として命じたと考えられている。当時は和歌の大家が相次いで世を去り、歌壇は人材不足だったため、まだ30代前半の公任に白羽の矢が立ったと見られ、これが公任を歌壇第一人者へと押し上げた。長徳5年(999年)に14年ぶりに従三位となった頃から道長に近づき、長保3年(1001年)には上席の参議3名を越えて中納言に任ぜられた。寛弘年間前半に編まれた勅撰集『拾遺和歌集』には、現存歌人中で最多の15首が採られた。道長が大堰川に漢詩・管弦・和歌の三つの舟を出した際に和歌の舟を選んだとされる「三舟の才」の逸話も名高い。

長保6年(1004年)には、親しい友人であった1歳年下の藤原斉信に位階で越され、公任はただちに出仕をやめて辞表を出した。辞表は大江匡衡が妻の赤染衛門の知恵を借りて作ったという逸話がある。7ヶ月の不参ののち、寛弘2年(1005年)7月に従二位となって参内を再開した。寛弘6年(1009年)に権大納言となり、寛弘9年(1012年)には長女を藤原教通に嫁がせた。公任はこの縁組をよほど自慢に思ったらしく、実資に長々と語って閉口させたという。このとき引き出物として贈られたのが『和漢朗詠集』とされる。同年には教通が叙位を譲ったことで正二位に昇った。

しかし寛仁5年(1021年)には正官の大納言になれず、昇進の限界が明らかになった。治安3年(1023年)に次女を、翌年に長女を相次いで亡くすと、深い痛手を受けて出仕をやめ、権大納言を辞した。万寿3年(1026年)正月、洛北長谷の解脱寺で出家し、近くに山荘を営んだ。跡は今も「朗詠谷」と呼ばれる。訪ねてきた斉信とは、娘を失った悲しみを語り合い、ともに泣き続けたという。道長ら四納言が次々に世を去るなか公任は最後まで生き残り、長久2年(1041年)1月1日に76歳で薨去した。『和漢朗詠集』『三十六人撰』の撰者であり、勅撰集に88首が入る歌人で、有職故実書『北山抄』も著した。

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