HISTORICAL PERSON · 1041年没

マスウード1世

ガズナ朝のスルタン(在位1030〜1040年)で、マフムードの長男。双子の弟ムハンマドから王位を奪い、弟を盲目にして幽閉した。西部領土の多くを失うと軍が反乱を起こし、弟が復位した。殉教王と呼ばれる。

生涯
1041年没
死亡地
インド(チャッティースガル州 / インド)
出生地
アフガニスタン・イスラム共和国(ガズニー)
出典
世界地図
インド(チャッティースガル州)

伝記

マスウード1世は、ガズナ朝のスルタン(在位1030年〜1040年)である。「殉教の王」を意味するアミーレ・シャヒードの名でも知られる。998年、ガズナ朝の都ガズナで、弟のムハンマドと双子として生まれた。ガズナのマフムードの長男で、1040年1月17日に没したとされる。

1015年、父から後継者に指名されてヘラートの総督となった。その5年後にはゴール地方への遠征を率いた。ゴールはなお異教徒の拠点であった。のちには父のジバール遠征にも加わり、ブワイフ朝のアミール、マジュド・アッダウラが治めていたレイを併合した。父がその地を去ったあとは、マスウードがイラン西部での作戦を任され、さらに西へ進んで、カークイヤ朝の君主ムハンマド・イブン・ルスタム・ドゥシュマンズィヤールを破り、ガズナ朝の権威を認める条約を結ばせた。しかしムハンマドは条約を破り続け、1030年にはレイをガズナ朝から奪い取った。

そのころ、マフムードはマスウードとの不仲から考えを変え、政務にも軍事にもはるかに経験の乏しい弟のムハンマドを後継者に定めた。まもなくマフムードが死去し、ムハンマドが跡を継いだ。しかしマスウードの叔父ユースフ・イブン・セブクティギンと、アリー・ダーヤらの有力な将校を含むガズナ朝軍は、遠征で名声を得ていたマスウードを支持した。かつての補佐役アブー・サフル・ザウザニーも加わり、宰相のような立場で威信と影響力を高めたが、復讐心が強く、陰謀を好んだため恐れられたという。マスウードは軍を強めるため、ヤグムル、クズィル、ボガ、ゴクタシュを首領とするトルクメンの一団も迎え入れた。

マスウードはガズナへ進んで弟を破って投獄し、自らスルタンとして即位した。弟は間もなく目をつぶされて幽閉された。マスウードは失脚していた政治家アフマド・マイマンディーを牢から出して宰相とし、アリー・ダーヤをホラーサーン軍の総司令官に任じた。インド軍の総司令官にはアフマド・イナルティギンが任じられ、1033年にヴァーラーナシー遠征を率いたが、のちに反乱を起こして罷免され、マジュドゥードが後任となった。マスウードは軍事指導者として優れていたが、将校たちの助言に耳を貸さず、のちの治世で破局を招くことになる。父の将校の多くを裏切りの疑いで見て、叔父ユースフや有力な政治家アリー・イブン・イル・アルスランまで投獄した。1032年にはマイマンディーが死去し、アフマド・シーラーズィーが宰相を継いだ。

ホラズムの総督アルトゥン・タシュは、カラハン朝の君主アリー・ティギンの領地を攻めに送られたが、サマルカンド近くで戦死し、息子のハールーンが跡を継いだ。1033年にはサルスートの要塞を奪い、1037年にはハーンシーの包囲戦でトマラ朝の君主を破った。ケルマーンにも侵入し、ブワイフ朝のアブー・カーリージャールの領地を一時は征服したが、ブワイフ朝の統治を望む住民が結集して奪い返した。1034年にハールーンはガズナ朝からの独立を宣言し、アリー・ティギンと同盟したが、マスウードはハールーンを暗殺させ、アリー・ティギンもまもなく死んだ。ハールーンの弟イスマーイールが跡を継ぎ、同盟を維持した。そのころセルジューク・トルコがトゥグリルのもとで庇護を求めたが、マスウードはこの遊牧民を危険とみなして軍を送った。軍は敗れ、ナサー、ファラーワ、ディヒスターンを割譲することで、セルジュークからガズナ朝の権威を認められた。

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