伝記
ゲルショム・ベン・ユダは、「われらの師ゲルショム」を意味するラベヌ・ゲルショム、あるいは「離散の光」と称される名で知られるタルムード学者であり、ユダヤ法の権威である。生年は960年ごろとされ、メスに生まれたともいわれる。没年は1040年とする説と、1028年にマインツで没したとする説がある。後者によれば、1040年という年は、ラシの誕生の年と死を重ねようとする伝説から来たものだという。両親についてはわかっておらず、生涯の詳細も多くは伝わらない。
活動の中心はライン川流域のマインツであった。ユダ・ベン・メイル・ハコーヘンの弟子で、早くから学問の才を示したと考えられ、やがてマインツの第一人者として大きな学院を率いた。当時の多くの学院は、一人の師の家に弟子が集まるだけのものだったが、この学院は数少ない合議制の学院の一つであり、最後の判断は常にゲルショムが下したものの、法に関する決定はあらゆる者が議論し、ときには異議を唱えることもできたという。学生はヨーロッパ各地から集まり、教えをドイツ、北フランス、東欧へ広めた。彼の存命中に、マインツは、かつてバビロニアのタルムード学院と結びついていたヨーロッパの多くのユダヤ人共同体にとって、ユダヤ教学の中心となった。宗教法に関する問い合わせは各国から寄せられ、彼が認めた措置はヨーロッパのユダヤ人の間で法的な効力を持った。当時のアシュケナジムは世界のユダヤ人人口の約3パーセントにすぎなかったが、彼の教えはその後のアシュケナジムのユダヤ教の礎とされる。
私生活では、最初の妻との間の息子が迫害の際に強制改宗させられ、背教者として死んだと伝えられる。最初の妻の死後、寡婦であったボンナと再婚してマインツに定住した。再婚は1013年のことともされる。兄弟のマキルは、聖書とタルムードの難語を集めた辞典『マキル師のアルファベット』を著したが、現存せず、一部が後世の注釈書に引用されるのみである。
著作は聖書の注解、マソラ、辞書学の分野で名高い。弟子たちはタルムード本文への注釈を書き、いくつかの篇に付した注解は広く読まれて、同種の著作が生まれる弾みとなった。多数のラビ回答も残り、さまざまな集成に散らばっている。迫害に触発された典礼詩も作り、「アブラハムの契約を思い起こせ」で始まる赦しの祈りは、新年と贖罪日の時期にアシュケナジムが唱える。タルムードなどの写本を作り、正しい本文を確立しようとしたとも伝えられる。
最も有名なのは、1000年ごろに開いたとされる会議と、そこで定められた禁令である。複婚の禁止、妻の意思に反する離婚の禁止、強制されて背教した者に関する規則の修正、他人あての私信を開封することの禁止が知られる。ただし、確実に彼自身の名で伝わるのは、悔い改めた者に過去の過ちを思い出させてはならないという禁止だけである。複婚、一方的な離縁、私信開封をめぐる三つの禁令は、シュパイアー、ヴォルムス、マインツの共同体の名で出されたもので、彼が発案したと考えられている。中世の書簡には、受取人以外が開くことを禁じるラベヌ・ゲルショムの禁令を示す封印の語が見られる。これらの禁令は今もアシュケナジムの宗教的ユダヤ人の間で効力を保ち、現代イスラエルでも法の根拠として用いられる。ラシは、アシュケナジムのすべての者は彼の弟子だと述べ、14世紀のアシェル・ベン・イェヒエルは、その著作を、シナイ山で伝えられたかのように揺るぎないものだと記した。
同じ年に亡くなった人物
- マヌーチヒリー・ダームガーニー (1040年)
- ルノー1世 (ヌヴェール伯) (1040年没)
- クニグンデ・フォン・ルクセンブルク (1040年没)
- ウンベルト1世 (サヴォイア伯) (1040年代没)
- ハロルド1世 (イングランド王) (1040年没)
同じ地域に関係する人物
- ルートヴィヒ4世 (プファルツ選帝侯) (1449年没)
- フリードリヒ・ヴィルヘルム・ライファイゼン (1888年没)
- アレクサンデル・セウェルス (235年没)
- フリードリヒ・ルートヴィヒ (プファルツ=ツヴァイブリュッケン公) (1681年没)
- グスタフ・ザムエル・レオポルト (プファルツ=ツヴァイブリュッケン公) (1731年没)