HISTORICAL PERSON · 1040年代没

ウンベルト1世 (サヴォイア伯)

初代サヴォイア伯で、サヴォイア家の祖。ブルグント王家の断絶後、皇帝コンラート2世に忠誠を誓って戦争を助け、その功績でサヴォイア伯と承認され領地を得た。子孫は19世紀にイタリアを統一する。

生涯
1040年代没
死亡地
フランス共和国(サヴォワ県 / Hermillon)
出生地
—
出典
世界地図
フランス共和国(サヴォワ県)

伝記

ウンベルト1世は、初代サヴォイア(サヴォワ)伯で、サヴォイア家の祖とされる人物である。「ビアンカマーノ」の通称で知られ、これはイタリア語で「白い手」を意味する。フランス語名はアンベール・オ・ブランシュ・マン、ラテン語名はフンベルトゥス・アルビス・マニブスである。生年は980年頃、没年は1047年か1048年ごろとされるが、同時代の記録は断片的で、生没年も家系も明確にはわからない。

980年頃、サヴォワ地方のサン=ジャン=ド=モーリエンヌ周辺の貴族アマデウスの子として生まれたとされ、アマデウスはおそらくモーリエンヌの伯であった。兄弟には、ベレーの司教となったオッドーネがいる。ブルグント王ルドルフ3世との近い関係から、家系はブルグント人と考えられ、ヴィエンヌ伯家の血を引くか、アルボン伯家と同族のブルグント貴族ではないかという推測がある。ただし、父の名や先祖を記した同時代の文書はなく、研究者はサクソン人説、ブルグント説、ボソン家との関係など、さまざまな説を唱えてきた。

ウンベルトは、はじめベレー付近とセルモラン伯領に領地を持ち、のちにアオスタやヴァレーにも領土を得た。名が文献に初めて現れるのは1000年1月26日付けの文書で、以後も断片的に史料に登場し、一説にはその数は二十から六十ほどの文書にのぼる。1003年のベレー司教オッドーネの文書では、ウンベルトの家族が「伯」の家族と呼ばれている。同じ1003年には、ルドルフ3世に代わってセルモランの一部であるヴィエンヌで判決を下した。ただし、サヴォイア伯の称号を得た経緯ははっきりしない。

1032年にルドルフ3世が後継者なく没してブルグント王家が断絶すると、王位は王の甥にあたる神聖ローマ皇帝コンラート2世が継いだ。ウンベルトは皇帝に忠誠を誓い、皇帝がブロワ伯ウード2世やミラノ大司教アリベルトと戦ったときには、これを助けて参戦した。皇帝はその功績に報い、ウンベルトをサヴォイア伯として承認するとともに、モーリエンヌ、シャブレー、おそらくタレンテーズを新たに与えた。

ウンベルトは1047年か48年ごろ、モーリエンヌの町エルミヨンで死去し、サン=ジャン=ド=モーリエンヌの大聖堂に葬られた。死亡日は1048年7月1日とも1047年7月19日とも記録され、1042年以前に没したとする説もある。妻はアンシリアといい、出自には諸説がある。子は少なくとも4男1女で、長男アメデーオ1世(第2代サヴォイア伯)が所領を継いだ。ほかにシオン司教アイモーネ、リヨン大司教ブルカルド、第3代サヴォイア伯となるオッドーネ、アルボン伯妃となるアデルがいる。後世にはその家系と事績の顕彰が図られ、物語化された。15世紀前半の年代記は、サヴォイア伯アメデーオ8世の依頼で書かれ、始祖をサクソン人貴族ベロルドの子とするなど恋愛、放浪、武勲などのロマンスを盛り込んで描いた。それによれば、ウンベルトは皇帝オットー2世の孫にあたるベロルドとバイエルン人貴族カタリーナの子で、のちの皇帝コンラートに従って武功を挙げ、1003年にアルプス一帯を与えられて、のちのサヴォイア伯国と呼ばれる実質的な勢力を築いたという。こうした筋書きは、同時代の記録からは確かめられない。「白い手」は、実際の手の白さではなく「清廉な人」を指す尊称だとも、城の白い壁を指すラテン語の誤読ともいわれる。子孫は19世紀後半にイタリアを統一し、イタリア王に即位した。

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