伝記
クニグンデ・フォン・ルクセンブルクは、神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世の皇后である。975年頃に生まれ、1040年3月3日に没した。カトリック教会の聖人で、ルクセンブルク、リトアニア、ポーランドの守護聖人とされ、聖名祝日は3月3日である。生涯にわたって執政に関わり、慈善、宮廷芸術、女子教育にも力を注いだ。東京都渋谷区代々木の文化服装学院本館前には、その銅像が立っている。
アルデンヌ家のルクセンブルク伯ジークフリート1世の娘で、11人きょうだいのひとりだった。母はヘドヴィヒという名の女性とされるが、どのヘドヴィヒかについては諸説あり、定まっていない。父方の祖母も同じくクニグンデといい、カロリング家の出で、本人はカール大帝の7代目の子孫にあたる。999年にハインリヒと結婚し、贈り物としてバンベルクを与えられた。若いころから修道女になりたいと望んでいたといわれ、結婚前に夫の同意のもとで純潔の誓いを立てたとも伝えられる。しかし、これが事実かどうかは議論があり、のちの聖人伝作者が、夫婦に子がなかったことから純潔の結婚だったと解釈したのだとする見方もある。一方で、純潔の結婚だったと認める者もいる。
当時はまだバイエルン公だったハインリヒが、やがてドイツ王として戴冠した。1002年7月9日にマインツで夫婦は戴冠し、クニグンデ自身は同年8月10日にパーダーボルンで、やはりマインツ大司教ヴィリギスによって戴冠された。これは、ドイツの王妃が単独で戴冠した最初の例として知られる。クニグンデは政治にも積極的に関わった。オットー朝の王妃に用いられた「統治の協力者」の称号が文書に見え、ハインリヒが残した文書の約3分の1には、彼女が進言者または発案者として現れる。夫のもっとも親しい助言者として帝国の会議にも出席し、バンベルクの司教座聖堂と修道院を含む、教会への土地の寄進にも影響を与えたという。1012年には皇帝軍を指揮してポーランド軍を破ったとも伝えられる。
1014年2月14日、夫に同行してローマへ向かい、ローマのサン・ピエトロ大聖堂で、教皇ベネディクトゥス8世から夫とともに帝冠を受け、皇后となった。在位中に重い病にかかったとき、回復したらカッセルにベネディクト会の修道院を建てると誓い、回復後にその誓いを守って建設が始まったが、1024年にハインリヒが没して完成を見なかった。夫の死後、クニグンデは兄弟とともに帝国の摂政を務め、同年9月8日にコンラート2世が選挙で新皇帝に選ばれると、帝国の宝器を引き渡した。夫妻が慈善に莫大な財を費やしたため、未亡人となった彼女は比較的貧しかったという。
1025年、夫の死からちょうど一年後に、自ら設立したヘッセンのカウフンゲン修道院に引退した。献堂式では真の十字架の聖遺物を捧げ、帝冠の装いを脱いで修道女の衣をまとった。以後は病人の世話と祈りに時間を費やし、1040年3月3日にカウフンゲンで亡くなった。遺体はバンベルク大聖堂の夫の墓の隣に葬られた。いったん別の場所に葬られ、列聖後の1201年に大聖堂へ移されたとも考えられている。1200年3月29日、教皇インノケンティウス3世によって列聖された。夫の列聖は1147年7月だった。列聖の伝記や教皇勅書には、いくつもの奇跡が記されている。そのひとつによれば、クニグンデは不倫のかどで告発されたが、灼熱の鋤の刃12枚の上を歩く神判を自ら望み、無傷で切り抜けて神を称えたという伝説がある。この逸話はグリム兄弟の『ドイツ伝説集』にも記されている。
同じ年に亡くなった人物
- ダンカン1世 (スコットランド王) (1040年没)
- フルク3世 (アンジュー伯) (1040年没)
- マヌーチヒリー・ダームガーニー (1040年)
- ウンベルト1世 (サヴォイア伯) (1040年代没)
- ルノー1世 (ヌヴェール伯) (1040年没)
同じ地域に関係する人物
- ユリアーナ・ツー・シュトルベルク (1580年没)
- ゲルトルート・フォン・ズルツバッハ (1146年没)
- Caroline of Nassau-Usingen (1823年没)
- ルイーゼ・フォン・プロイセン (1829-1901) (1901年没)
- フリードリヒ2世 (ヘッセン=カッセル方伯) (1785年没)