HISTORICAL PERSON · 1898年没

ステファヌ・マラルメ

『半獣神の午後』『骰子一擲』を著したフランス象徴派の代表的詩人。英語教師のかたわら難解な詩作を続け、自宅の「火曜会」には画家や詩人が集い、ドビュッシーの作曲にも着想を与えた。

生涯
1898年没
死亡地
フランス共和国(セーヌ=エ=マルヌ県 / Valvins)
出生地
フランス共和国(パリ)
出典
世界地図
フランス共和国(セーヌ=エ=マルヌ県)

伝記

ステファヌ・マラルメは、1842年3月18日にパリで生まれ、1898年9月9日にフォンテーヌブロー近郊のヴァルヴァンで没した、19世紀フランス象徴派を代表する詩人である。本名はエティエンヌ・マラルメという。法律家を多く出す中流の家庭に生まれ、父ヌマの側には貴族の血筋もあった。幼い日々は母エリザベートと母方の祖父母にかわいがられてパッシーの屋敷で過ごしたが、母が病で亡くなり、彼と妹マリアは祖父母に預けられた。寄宿学校では平民の出身をからかわれ、成績も振るわなかった。1856年にサンスの帝国リセの寄宿生になった。妹マリアは13歳で急死し、彼は大きな衝撃を受けた。

はじめはユゴーやゴーティエの影響を受けて詩作を始め、1860年にボードレールの『悪の華』を知って決定的な影響を受けた。1862年に詩がいくつか雑誌に載った。サンスで知り合ったドイツ人の家庭教師マリア・ゲルハルトと、英語教師になるつもりでロンドンへ移り、のちに結婚した。1863年からトゥルノン、ブザンソン、アヴィニョンの中学で教え、1871年にパリに出た。パリではコンドルセ中学で英語を教える傍ら、ヴェルレーヌやゾラ、ヴィリエ・ド・リラダンらと交わった。教師の仕事では生徒に騒がれるなど苦労が多く、暮らしには経済的な困難と死別が絶えなかった。1879年には息子アナトールが幼くして亡くなり、その墓のための詩を書き始めたが、未完のまま残された。

1866年ごろ、「エロディヤード」を書き進めるうちに「形而上学的危機」と呼ばれる精神状態に陥り、この世の一切が虚無であることに出会った。友人への手紙に「幸いにも私は完全に死んだ」と記し、この言葉はモーリス・ブランショの思索に影響を与えた。しかし詩の根源を探るなかで「美」を発見し、それを詩と宇宙の中心原理とした。この時期に書かれた『イジチュール』は、文法も意味も極限まで拡散されていた。目ざしたのは、詩作に生じる「偶然」を排した完全な詩であり、その困難さに詩作の不毛にも悩まされた。1873年ごろに画家マネと知り合い、1874年にポーの『大鴉』を散文に訳して、1876年にはマネの挿絵を添えた豪華本『半獣神の午後』を出した。この作品にインスピレーションを受けて、ドビュッシーが『牧神の午後への前奏曲』を作曲した。

1884年にヴェルレーヌが『呪われた詩人たち』に彼を加えて名声が固まった。ローマ街の自宅で開かれた「火曜会」には、モネ、ルノワール、ドガ、ゴーギャン、ヴェルレーヌ、ヴァレリー、ワイルド、ジッド、ドビュッシーら多くの芸術家が集まった。1887年に『詩集』を出し、評論集『ディヴァガシオン』は1897年に刊行された。最晩年に雑誌に発表した『骰子一擲』は、さまざまな書体や文字の大きさを用い、西洋詩の概念を根本から覆した。次に『エロディヤードの婚礼』に着手したが、1898年に咽喉痙攣による窒息で急逝し、未完に終わった。思索の中心には文学があり、「世界は一冊の書物に至るために作られている」という言葉にそれが表れている。バレエを「身体で描くエクリチュール」ととらえた言葉は、20世紀の舞踊論に影響を与えた。その難解な詩と思索は、サルトルやブランショ、バルト、フーコー、デリダらにも影響を与えた。

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