伝記
ギュスターヴ・モローは、1826年4月6日にパリで生まれ、1898年4月18日にパリで亡くなったフランスの象徴主義の画家である。聖書やギリシャ神話に題材をとり、想像と幻想の世界をもっぱら描いた。印象派の画家たちとほぼ同時代に活動し、その作品は19世紀末のいわゆる「世紀末」の画家や文学者に多大な影響を与え、象徴主義の先駆者とされている。父は建築家のルイ・モロー、母は音楽家であった。体が弱く、6歳のころから素描をして遊ぶようになった。1843年に最初のイタリア旅行をし、1844年にフランソワ=エドゥアール・ピコの弟子となった。1846年にエコール・デ・ボザール(官立美術学校)に入ったが、1848年と1849年にローマ賞のコンクールに挑んで落選し、学校を退いた。親交のあったテオドール・シャセリオーらロマン派の画家から影響を受け、1851年に制作した『ピエタ』にはドラクロワの影響が見られる。
1849年から1854年にかけて、当時のフランス政府からいくつかの依頼を受け、1852年に『ピエタ』を出品して、サロンに初めて登場した。1855年にはパリ万博に『クレタ島の迷宮の中のアテナイの若者たち』を出品した。この作品には、ロマン主義の劇的な造形と、ルネサンスの古典主義に基づく秩序やバランスの感覚との融合が見られる。1857年9月から1859年まで、私費でローマに留学し、ローマ、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィアなどを巡って、ティツィアーノやレオナルド、システィーナ礼拝堂のミケランジェロの壁画を模写した。滞在中の1858年ごろにはエドガー・ドガと知り合っている。
帰国後、イタリアでの成果を自らの様式に反映させるようになり、1860年代の最初の数年を『オイディプスとスフィンクス』の制作に費やして、1864年にサロンに出品した。スフィンクスを若い女の姿で表し、伝統的な物語を「男」と「女」の葛藤として描き出したこの作品は、保守的なサロンでは物議をかもしたが、賞牌をもたらし、ナポレオン公の買い上げとなった。モローのメモからは、善と悪、男と女、物質性と精神性の対立を意識していたことがわかる。ほかの主な作品に『オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘』(1865年)、『ヘロデ王の前で踊るサロメ』(1876年)、『出現』(1876年)、『ヤコブと天使』(1878年)、『ユピテルとセメレ』(1894年から95年)がある。1886年にパリのグーピル画廊で開かれた水彩画展は、ラ・フォンテーヌの『寓話』にもとづく連作と七点の作品からなり、生前唯一の個展となった。ここに出された『聖なる象(ペリ)』は、水彩の技法最良の部分を示している。
1888年に美術アカデミー会員に選ばれ、1892年にエコール・デ・ボザールの教授となった。弟子の個性を尊重して才能を自由に伸ばす指導方針で、「私は君たちが渡っていくための橋だ」と語ったという。この生徒の中から、マティスとルオーという2人の巨匠が生まれた。その反面、伝統を重んじる会員たちからは疎まれ、マティスらモローの庇護を受けた生徒は、彼の死後に学校から追放された。次第にサロンから遠ざかり、パリのラ・ロシュフーコー街の屋敷に閉じこもって制作を続けた。死去したとき、アトリエには油彩約800点、水彩575点、デッサン約7000点が残されていた。1852年から終生過ごした館は、遺言によりギュスターヴ・モロー美術館として公開され、初代館長はジョルジュ・ルオーが務めた。
同じ年に亡くなった人物
- アントン・ザイドル (1898年没)
- エドワード・ベラミー (1898年没)
- サイイド・アフマド・ハーン (1898年没)
- ヘンリー・ベッセマー (1898年没)
- フィリップ・ハモジェニーズ・コールドロン (1898年没)
同じ地域に関係する人物
- Louis-Francois-Clement Breguet (1883年没)
- フェルナンド・ラングル・ド・カリー (1927年没)
- フレデリック・ショパン (1849年没)
- Juan Bautista Ceballos (1859年没)
- ルネ・ゴシニ (1977年没)