HISTORICAL PERSON · 1031年没

ロベール2世 (フランス王)

カペー朝第2代のフランス王で、敬虔王と呼ばれた。王領の拡大を図り、ブルゴーニュ公領を1016年に手に入れた。

生涯
1031年没
死亡地
フランス共和国(セーヌ=エ=マルヌ県 / ムラン)
出生地
フランス共和国(オルレアン)
出典
世界地図
フランス共和国(セーヌ=エ=マルヌ県)

伝記

ロベール2世は、972年3月27日に生まれ、1031年7月20日に没したカペー朝第2代のフランス王である。在位は996年から1031年まで、「敬虔王」と呼ばれる。父は初代国王ユーグ・カペー、母は王妃アデライード・ダキテーヌで、アキテーヌ公ギヨーム3世の公女である。誕生の日付と場所は正確には分かっていないが、歴史家の多くは972年、9世紀以来ロベール家の中心だったオルレアンとみている。名は、866年にヴァイキングとの戦いで没した祖先ロベール豪胆公にちなむ。姉妹にはジゼル、エドヴィージュ、アデライードがいた。

987年12月25日、父はオルレアンでロベールを共治王として戴冠させ、カペー家による王位の世襲を諸侯に確認させた。若いころは、父を助けて軍事にも関わり、988年と991年のランの包囲に加わった。ランスでは、のちの教皇シルウェステル2世となるジェルベールに学び、その教養によって宗教の問題にも取り組めるようになった。991年のヴェルジー教会会議や、994年のシェル教会会議を主宰したという。

996年に単独で統治を始めると、父の政策を受け継ぎ、ノルマンディーやアンジューとの同盟を保ち、ブロワ伯ウード2世の野心を抑えた。当時のフランス王国が実際に治めていた範囲は、きわめて狭かった。ロベールは王領を広げるため、継承者のいなくなった諸侯領を併合しようとしたが、対立する継承権者との戦いを招いた。1003年にはブルゴーニュ公領へ出兵したが、強い抵抗に遭い、教会の支援を得てこの地を手に入れたのは1016年だった。この長い戦いの背景には、叔父のブルゴーニュ公アンリ1世が子なく没すれば公領はロベールに返るはずだったのに、アンリがそれを継子のオットー・ギヨームに譲っていたことがあった。

ロベールは3度結婚した。989年ごろにイタリア王ベレンガーリオ2世の娘ロザーラと結婚したが、996年の単独統治の開始後まもなく離婚した。次いで996年ごろに、ブロワ伯ウード1世の未亡人ベルトと結婚したが、又従姉であったため、教皇グレゴリウス5世は結婚を認めず、ロベールは破門される原因となった。この問題は、次代の教皇シルウェステル2世との交渉の末、婚姻の無効が宣告された。1001年には、アルル伯ギヨーム1世の娘コンスタンスと結婚し、7人の子をもうけた。

ロベールは、「敬虔王」の名のとおり極めて信心深く、宮殿の一角に礼拝所を作り、王服をまとって朝課や晩課を行い、異教徒には厳しい政策をとった。修道院や貧しい人々に数多くの寄進をし、ハンセン病の患者を癒やしたとも伝わり、最初の「王の奇跡」を行う君主とされる。彼の生涯を称える伝記は、修道院長エルゴーによるもので、ほとんど聖人伝に近い。晩年には、妻コンスタンスの反抗や、長男ユーグ、次男アンリ、三男ロベールの反乱に悩まされた。ユーグは共治王だったが、自ら単独王となるべく反乱を起こし、1025年に急死した。続いてアンリとロベールも反乱を起こし、敗れたロベール2世はパリからボージャンシーへ退いた。1031年7月20日、ムランで没した。息子との戦いのさなかに戦死したとする資料もある。王位は次男アンリが継いだ。

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