伝記
ミェシュコ2世ランベルトは、990年頃に生まれ、1034年5月10日(10日とも11日ともいう)に没したポーランドの君主である。1025年から1031年まで王、1032年から死ぬまでは公の称号で国を治めた。勇敢王ボレスワフ1世の次男で、三番目の妃であるラウジッツのエムニルダが産んだ子としては最年長にあたる。名は父方の祖父ミェシュコ1世にちなむとみられ、第二の名ランベルトは聖ランベルトにちなんで付けられたもので、あだ名と誤解されることがある。当時としては非常に良い教育を受け、ギリシャ語とラテン語の読み書きができたという。
若い頃から政治に関わり、父は彼を後継者に定めた。主にドイツとの外交と戦争で、父の代理や軍の指揮官として働いた。1013年にはマクデブルクで皇帝ハインリヒ2世に臣従の礼をとった。同じ年、ロタリンギア宮中伯エッツォの娘で、皇帝オットー3世の姪にあたるリヘザと結婚し、皇帝家に連なる立場を得た。父はこの頃クラクフを彼に与えて統治させたとされ、居所にはヴァヴェル城が選ばれた。彼は教会を多く建てたという。1014年には父の使者としてボヘミアに赴き、オルドジフ公に皇帝への同盟を説いたが、成功せず、逆に捕らえられた。皇帝の介入で解放されたのち、人質としてメルゼブルクの宮廷に送られたが、これも間もなく解かれた。
翌1015年からの対皇帝戦争では、ポーランド軍の先頭に立った。ハインリヒ2世は和平の使者を送ったが彼は拒み、退却する皇帝軍を追って大きな損害を与えた。1017年にはモラヴィアへ進み、ボヘミアと共に皇帝を攻める計画を立てて、皇帝が正面攻撃を断念する一因となった。1018年1月30日のバウツェンの和約は、ポーランドに極めて有利な内容だった。1025年にグニェズノで即位し、1028年初頭からはドイツ軍の侵入に悩まされたが、これを撃退し、逆にザクセンまで攻め込んだ。ハンガリー王国と同盟し、ハンガリーによるウィーン占領にも加わった。
しかし王位は内部から揺らいだ。年長者相続の慣習があるポーランドでは、庶兄ベスプリムの存在が彼の地位を脅かした。ミェシュコは兄を修道院へ追いやったが、兄はキエフ大公ヤロスラフ1世の軍事支援を得て戻り、1031年にミェシュコ軍を破って王位に就いた。ベスプリムはドイツの宗主権を認め、王冠や王家の宝石をドイツに渡し、国土をミェシュコの同母弟オトンや従弟ティエドリックと分割した。ボヘミアに逃れたミェシュコはオルドジフ公に捕らえられたが、間もなく政権を取り戻した。ただし称号は王ではなく公であった。1032年には三つに分かれた地域のひとつで権力を回復し、その後ベスプリムを殺害し、オトンも排除して国を再統一した。オトンは自分の部下に殺されたという。この間に、父が得た上ラウジッツ、下ラウジッツの一部、赤ルテニア、上ハンガリーの西部と中部、おそらくモラヴィアも失われた。
この後の経過は今も謎で、ミェシュコは1034年に急死した。歴史家は貴族による暗殺を推測している。死後、異教を守る農民が大規模な反乱を起こしたが、原因と日付は不明である。彼は後世「怠け者」などと呼ばれるが、これは不当な呼び名であり、治世の初めには有能な統治者として振る舞っていたとされる。妻リヘザとの間には、ハンガリー王ベーラ1世妃となったリグザ、のちのカジミェシュ1世、キエフ大公イジャスラフ1世妃となったゲルトルダがいた。
同じ年に亡くなった人物
- エッツォ (ロートリンゲン宮中伯) (1034年没)
- マルカム2世 (スコットランド王) (1034年没)
- ロマノス3世アルギュロス (1034年没)
- シャバンヌのアデマール (1034年没)
- オルドジフ (1034年没)
同じ地域に関係する人物
- ブロニスワフ・ゲレメク (2008年没)
- フリードリヒ・レオポルト・フォン・プロイセン (1931年没)
- ボレスワフ・ポボジュヌィ (1279年没)
- ミェシュコ3世 (1202年没)
- ピーター・リンドバーグ (2019年没)