伝記
オルドジフは、プシェミスル家の出身で、1012年から1033年までボヘミア公を務め、1034年に短く再び公位に就いて、同年11月9日に没した人物である。生年は970年頃とされる。ボレスラフ2世の四男(存命の子としては三男)で、母はムニェルニークのエマである。彼の即位は、長く続いた王家内の争いの後に、安定の時期をもたらしたとされる。その治世にモラヴィアはポーランドの占領から取り戻された。
父が999年に没すると、長兄のボレスラフ3世が公位を継いだが、まもなく弟のオルドジフやヤロミールと激しく対立した。1001年、二人は母とともにバイエルンのレーゲンスブルクの宮廷へ逃れた。翌年にボレスラフ3世が対立するヴルショヴツィ家に廃され、ポーランドの勇敢王ボレスワフ1世がボヘミアに侵入すると、ドイツ王ハインリヒ2世が介入した。王のプラハ遠征に伴って兄弟は帰国でき、1004年にヤロミールが公位に就いた。ヤロミールは1002年から1018年のドイツとポーランドの戦争の間、ドイツ王に忠実だった。それでも1012年4月12日、弟オルドジフはヤロミールを廃位して目を潰した。ヤロミールはポーランドへ逃れた。ハインリヒ2世はこれに動かず、オルドジフはドイツ王の宗主権を認め、反乱を起こしたヴルショヴツィ家の勢力を抑えて自らの支配を固めた。1024年には新しいローマ王の選出を支持したという。彼の庇護のもとで聖プロコプがサーザヴァ修道院を建て、初代の院長となった。ドイツ帝国に従属しながらも、独自の外交を行ったとされる。
オルドジフと息子ブジェチスラフは、祖父ボレスラフ1世が一度征服したのちにポーランドへ奪われていたモラヴィアの奪還をめざした。ブジェチスラフは妻ユディト(シュヴァインフルト家出身)とともにオロモウツに居を構えた。1019年から取り戻しの動きを強め、1029年には皇帝コンラート2世の後援を受けたボヘミア軍がポーランド人を東方の地から追い出した。ブジェチスラフはモラヴィアの公と呼ばれた。しかし、現在のスロバキアにあたる隣接地へ進み、ハンガリー王国軍を攻めようとした1030年の企ては、皇帝がハンガリー王イシュトヴァーン1世と合意に達したことから失敗した。翌1031年、ボヘミア軍は皇帝のための出陣を拒んだ。
1032年、オルドジフはメルゼブルクの宮廷会議に招かれたが現れなかった。ブルグントでの事件に忙しい皇帝コンラートは、息子のハインリヒ3世にこの不従順なボヘミア公を罰するよう命じた。オルドジフは逮捕されて廃位され、バイエルンに送られ、公位には再び兄ヤロミールが据えられた。翌年に赦免されて帰国すると、ヤロミールを捕らえて目を潰し、廃位して、権力を取り戻した。ヤロミールの子はモラヴィアから追い出した。1034年の復活祭にメルゼブルクで兄と共同で統治するよう命じられたとも伝えられ、その後は大きな混乱が生じたという。同年11月9日、彼は宴の最中に突然世を去った。
結婚については、最初の妻の素性は不明で、子はなかった。中世の年代記作者プラハのコスマスの伝える伝説では、1002年頃、子がないことを理由に先妻を離縁してボジェナと結ばれたという。ボジェナは農民の出で、洗濯をしているところを狩りの途中のオルドジフが見初めたとされ、この出会いは後世の文学・美術・音楽の題材になった。二人の子ブジェチスラフ1世は、1035年から1055年までボヘミア公を務めた。ヤロミールは兄の死後、甥ブジェチスラフを支持して継承を諦めたが、ヴルショヴツィ家の者に殺されたという。
同じ年に亡くなった人物
- エッツォ (ロートリンゲン宮中伯) (1034年没)
- 徳宗 (高麗王) (1034年没)
- アヴォワーズ・ド・ノルマンディー (1034年没)
- ロマノス3世アルギュロス (1034年没)
- マルカム2世 (スコットランド王) (1034年没)
同じ地域に関係する人物
- ミロシュ・ヤケシュ (2020年没)
- ハヌシュ・ヴィハーン (1920年没)
- Adelaide of Hungary (1062年没)
- Karel Senecky (1979年没)
- フランチシェク・ヴラーチル (1999年没)