伝記
エッツォは、955年ごろに生まれ、1034年に没したロートリンゲン宮中伯(在位1015年-1034年)である。エレンフリートとも呼ばれ、エツェリンなど多くの綴りでも記される。エッツォ家(エッツォーネン)の一員で、ライン地方の歴史で当時最も重要な人物の一人とされる。皇帝オットー2世の娘マティルデを妻とし、のちにポーランド王妃となる娘リヘザをはじめ、多くの著名な子の父となった。
父はロートリンゲン宮中伯ヘルマン1世(996年没)、母はハイルヴィヒ・フォン・ディリンゲンである。幼いころ、母の親戚にあたるアウクスブルク司教ウルリヒのもとへ教育のために送られたが、若いころのことはほとんど分かっていない。996年に父が亡くなると、豊かな私有地は息子たちで分けられ、エッツォはモーゼル川沿いのコッヘム、マイフェルト、フラーメルスハイムの森、ラインバッハ近くのトンブルク城周辺の所領などを受け取った。のちには1015年にアウエルガウの伯、1020年にボンガウの宮中伯と記され、ルールガウ伯領とエッセン修道院の保護権も得た。
エッツォは皇帝オットー3世の時代に頭角を現した。マティルデとの結婚は皇太后テオファヌが明確に認めたもので、有力なエッツォの一族を王座に引きつける狙いがあったと考えられている。マティルデにはテューリンゲンやフランケンのオットー家領(オルラミュンデ、コーブルクやザールフェルト周辺など)が嫁資として与えられ、エッツォは一族の所領ブラウヴァイラーを贈った。皇帝の娘にふさわしい待遇のためとして、ザウアーラントの伯領やフォークタイ、ザールフェルトの帝国領なども受け取ったとされる。こうして広大な領地を支配したことから、ケルン大司教との権力争いも起こった。
1002年にオットー3世が没すると、エッツォは帝位を狙ったが成功せず、新王ハインリヒ2世との関係は初めから険悪になった。ハインリヒは所領の所有を争い、エッツォは妻がオットー3世から受けた相続財産だと主張して守った。対立は年を追って続き、1011年に頂点に達した。ロートリンゲンの混乱に直面した王はエッツォの軍事的支援を必要とし、妥協に追い込まれた。王は和解して相続の権利を認め、帝位への野心を捨てることを条件に、カイザースヴェルト、デュースブルク、テューリンゲンのザールフェルトを与えた。さらにエッツォ家を自らの東方政策に組み込み、エッツォの娘リヘザとポーランドの王位継承者ミェシュコ2世ランベルトとの結婚(1013年)の仲立ちをした。こうしてエッツォは帝国屈指の有力諸侯となった。
1024年、夫妻はローマへの旅ののち、ブラウヴァイラーにベネディクト会修道院を創建した。1028年にケルン大司教ペレグリーヌスにより献堂され、一族の墓所かつ精神的な中心となった。マティルデは1025年11月4日に亡くなり、最初にここへ葬られた。エッツォは高齢でザールフェルトに没し、没日は5月21日とも3月21日ともいわれる。遺体はブラウヴァイラーに葬られた。晩年のことはほとんど知られていない。子は三男七女で、長男リウドルフはズトフェン伯、次男オットー1世はロートリンゲン宮中伯からシュヴァーベン大公となり、三男ヘルマン2世はケルン大司教となった。娘のうち結婚したのはリヘザだけで、ほかは修道院に入り、みな女子修道院長になった。妻の死後には、愛妾とのあいだにゴルツェの修道院長となるハインリヒももうけた。政治的な手腕と野心の持ち主であったと評される。
同じ年に亡くなった人物
- マルカム2世 (スコットランド王) (1034年没)
- ディートリヒ1世 (ラウジッツ辺境伯) (1034年没)
- 徳宗 (高麗王) (1034年没)
- シャバンヌのアデマール (1034年没)
- ミェシュコ2世 (ポーランド王) (1034年没)
同じ地域に関係する人物
- ルーカス・クラナッハ (1553年没)
- ゾフィー・シャルロッテ・フォン・ブランデンブルク=バイロイト (1747年没)
- アルフレート・ブレーム (1884年没)
- フリードリヒ・フレーベル (1852年没)
- ヨーゼフ・マイヤー (1856年没)