HISTORICAL PERSON · 1202年没

ミェシュコ3世

ポーランド大公位を4度にわたり獲得と喪失を繰り返した「老公」で、ヴィエルコポルスカ・ピャスト家の祖となり81歳で大公在位のまま没した。

生涯
1202年没
死亡地
ポーランド共和国(ヴィエルコポルスカ県 / カリシュ)
出生地
—
出典
世界地図
ポーランド共和国(ヴィエルコポルスカ県)

伝記

ミェシュコ3世は、長命だったことから「老公」と呼ばれた、ポーランド大公である。ヴィエルコポルスカ・ピャスト家の祖にあたる。生年は1121年ごろともされ、1122年から1125年のあいだともいう。ボレスワフ3世と、2度目の妃ザロメア(ドイツの伯ハインリヒ・フォン・ベルク・シェルクリンゲンの娘)の四男で、ヴワディスワフ2世の異母弟、ボレスワフ4世の同母弟、ヘンリクとカジミェシュ2世の同母兄にあたる。

1138年の父の遺言で、ミェシュコは、新しくつくられたヴィエルコポルスカ公領の、西の部分を受けた。それ以前はポズナン公で、ポズナンに居を構えていた。異母兄ヴワディスワフ2世は、クラクフを中心とする長子領を持つ首位の公となった。1140年から1141年にかけて、ミェシュコは、兄ボレスワフ4世、母ザロメアとともに、ヴワディスワフに知らせないまま、ザロメアが終身の寡婦領として持つウェンチツァを分けようとした。この地は、彼女の死後、長子領に戻るはずだった。1141年、ザロメアは、ウェンチツァで会議を開き、妹アグニェシュカを、キエフ大公フセヴォロド2世の息子の一人に嫁がせて、ヴワディスワフ2世に対抗する味方を得ようとした。ヴワディスワフが急いで介入したので、この企ては失敗した。フセヴォロド2世は、強い大公との同盟を選び、1142年に、ヴワディスワフの長男と自分の娘との婚約が結ばれた。ヴワディスワフは、1142年から1143年の冬、キエフ軍がザロメアと息子たちを攻めるのを助けた。

1144年7月27日にザロメアが死ぬと、ヴワディスワフ2世は、ウェンチツァを長子領に併合した。ボレスワフ4世とミェシュコ3世は、この土地を幼い弟ヘンリクに与えようとして反対し、1145年に戦いが起きた。ヴワディスワフはいったん不意の敗北を喫したが、キエフの同盟軍のおかげで、ピリツァ川の戦いに勝った。協定が結ばれ、ヴワディスワフはウェンチツァを保った。のちにヴワディスワフは、宮中伯ピョトル・ヴウォストヴィチを、目をつぶし口をきけなくして国外に追放し、これが彼の没落の始まりとなった。1146年、戦いは再び起こり、ヴワディスワフ2世は亡命した。

1173年、兄ボレスワフ4世が死ぬと、ミェシュコは大公となり、クラクフを手に入れて、ほかのピャスト家の公たちの上に立った。神聖ローマ帝国の介入を借りて公の権威を強め、収入を増やし、貴族と聖職者の影響力を抑えようとしたが、国内の反対にあい、1177年に、弟のカジミェシュ2世によって、大公の座を追われた。ヴィエルコポルスカ公位も、長男オドンに奪われた。それでも復位の望みを捨てず、1202年に亡くなるまで、4度もクラクフへ舞い戻り、大公位の奪回と廃位を繰り返した。1191年から1194年、1198年から1199年にも大公となった。オドンはミェシュコより先に1194年に亡くなり、孫のヴワディスワフ・オドニツがヴィエルコポルスカを継いだが、幼かったため、ミェシュコの末子ヴワディスワフ3世が後見人となった。1202年には、甥のレシェク1世から大公位を奪って4度目の大公となり、その直後の3月13日に、81歳で死んだ。ヴワディスワフ3世が大公位を継いだ。中世の年代記作者は、ミェシュコを厳しく強欲な人物として描いたが、現代の歴史家は、集権的な統治を押し進めようとした支配者とみる。

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