HISTORICAL PERSON · 1279年没

ボレスワフ・ポボジュヌィ

ヴィエルコポルスカ公。ユダヤ人に司法権の自立や商業の自由を保障するカリシュの法令を発布し、後世のユダヤ人特権の参考となった。

生涯
1279年没
死亡地
ポーランド共和国(ヴィエルコポルスカ県 / カリシュ)
出生地
ポーランド共和国(ヴィエルコポルスカ県)
出典
世界地図
ポーランド共和国(ヴィエルコポルスカ県)

伝記

ボレスワフ・ポボジュヌィは、ヴィエルコポルスカ公ヴワディスワフ・オドニツの次男として、1220年代に生まれたとされる。母ヤドヴィガは、ポメレリア公ムシチュイ1世の娘とされる。生前から「敬虔公」の名で呼ばれ、この呼び名はポズナン司教座聖堂参事会の年代記に見える。父は叔父のヴワディスワフ3世と相続をめぐって争っていたが、子の教育にも気を配り、ボレスワフも兄のプシェミスウ1世と同じようにラテン語の読み書きができた。

1239年6月5日に父が死んだとき、ボレスワフはまだ未成年で、まず兄のプシェミスウ1世が単独で統治した。兄弟は1241年から、父が失った土地を取り戻しはじめた。1243年にはポズナンとグニェズノの公領のほとんどを回復し、1244年にカリシュ、1247年にサントク、1249年にヴィエルンを取り戻した。1245年4月24日、プシェミスウ1世はグニェズノで、大司教ペウカ・リスが執り行った聖アダルベルトを称えるミサの席で、弟に騎士の叙任を行い、成人と認めた。

公領を分けずに保つ方針はボレスワフの望みに合わず、1247年に兄を説得して、自分だけが治める領分を受け取った。これがカリシュ公領である。この分割は弟にとってやや不公平だったが、教会が承認し、ボレスワフが抗議すると破門を警告された。1249年にも兄の後見に不満を抱いて新たな分割を求め、カリシュとグニェズノの両公領にヴィエルンを加えた領地を得た。ところが1250年5月19日、プシェミスウ1世が弟を捕らえ、領地と城をすべて奪うという出来事が起こった。理由は分かっていない。ボレスワフは有力な聖職者たちの圧力により、1253年4月20日にようやく自由になった。同じ年の5月、ギェチ近郊のポゴジェリツァでの会合で、大司教ペウカの仲介により兄弟は和解し、ボレスワフはカリシュとグニェズノの領地を取り戻した。1254年5月8日には、聖スタニスワフの列聖を機にクラクフで開かれたピャスト家の諸公の会議に出席し、ポメレリア公シフィエントペウク2世に対する同盟の結成が決まった。

1257年6月4日に兄が36歳の若さで没し、ボレスワフはヴィエルコポルスカ全体の単独の統治者となった。兄の遺児プシェミスウ2世は同じ年の10月14日に生まれ、ボレスワフはその成人まで後見人を務めた。1257年、ハンガリー王ベーラ4世の娘ヨレンタと結婚した。1258年とする説もある。1262年から1264年にかけては、マゾフシェ、プウォツク、チェルスクの公領の摂政も務めた。1263年には娘エルジュビェタが生まれた。1264年8月16日、ボレスワフはヴィエルコポルスカのユダヤ人に、カリシュの法令と呼ばれる諸権利を与えた。ユダヤ人に与えられた最初の成文法による保護条例で、ユダヤ人社会の司法の自立と、金融業と商業の自由を保障した。1795年にポーランドでユダヤ人に与えられた特権は、この法令をかなりの程度参考にしている。

1266年には次女ヤドヴィガが生まれた。1268年からブィドゴシュチュを、1271年からイノヴロツワフを治め、1273年からは死ぬまでグニェズノとカリシュの公だった。1278年に三女アンナが生まれた。翌1279年4月14日、ボレスワフは没した。息子がなかったため、甥のプシェミスウ2世がヴィエルコポルスカを継いだ。エルジュビェタはレグニツァ公ヘンリク5世と結婚し、ヤドヴィガはのちのポーランド王ヴワディスワフ1世と結婚した。アンナはグニェズノの修道女になった。妻ヨレンタは1827年にローマ・カトリック教会で列福されている。

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