伝記
李公蘊は、ベトナム最初の長期王朝である李朝を開いた初代皇帝である。廟号は太祖、諡号は神武皇帝といい、李太祖の名でも知られる。974年に生まれ、1028年に没した。在位は1009年から1028年までの約18年である。
出自には謎が多い。史書によれば北江の古法州、現在のバクニン省トゥーソン市の出身で、母は范氏という名の女性だったこと以外、ほとんど知られていない。父が誰かもわからず、即位したときに亡父へ顕慶王と追号したという記録がわずかにあるだけである。民間伝承では、母の范氏が蕉山に遊んだ折、夢の中で神と交わって公蘊を産んだとされ、父はいなかったと語られる。3歳のとき、母は公蘊を古法寺の法師である李慶文の養子に出した。一方で、泉州の閩南系の家に連なり、李淳安の次男として幼い頃に父とともに安南へ移ったともされる。
公蘊は聡明で学問を好み、気宇壮大であった。幼い頃から六祖寺で学び、高僧の万行はその非凡さを見抜いて、のちに名君として立つ者と予感したという。長じて経済や歴史を学び、当時安南を支配していた前黎朝に仕えて殿前軍となった。黎桓の娘を妻に迎え、黎の姓を賜ったとされる。黎桓の死後、即位した中宗の黎龍鉞はほどなく弟の黎龍鋌に殺された。群臣が恐れて散り散りになるなか、公蘊だけは中宗の遺体を抱いて慟哭した。その忠義に感心した黎龍鋌は、彼を左親衛殿前指揮使などに任じた。黎龍鋌は痔を患い、横になったまま政務を執ったので「臥朝皇帝」と呼ばれた。その統治は暴虐で、人心は離れていった。そのころ古法州で木棉の木が裂け、中から詩文が現れた。万行はこれを、黎氏が滅んで李氏の国が興る予言と解釈した。臥朝皇帝は李姓の大臣を誅殺したが、帝の信頼が厚かった公蘊は免れた。この事件ののち、公蘊は皇位を奪う野心を抱くようになったという。
景瑞2年(1009年)に臥朝皇帝が没すると、皇太子の黎龍乍はまだ10歳で、帝の二人の弟が皇位を争った。公蘊は右殿前指揮使とともに、護衛の名目でそれぞれ500の兵を率いて宮中に入った。側近に即位を勧められた公蘊は、これを陰謀とみなして二人を捕らえたが、最終的にその意を受け入れた。万行らの策のもと、兵を率いて二人の弟を討ち、皇位を奪った。姓を黎から李に戻して李朝を興し、翌年には元号を順天とした。即位後まもなく、都を山間の華閭から紅河デルタの大羅城に移した。船で到着した際に黄龍が現れたといい、群臣は吉兆と喜んで城を昇龍と改めた。これが現在のハノイである。残酷な処刑具や拷問具を焼き捨てて民心を得、順天4年(1013年)には各産物に関する税制を定めた。全土を24の路に再編し、路の長には中央から文官を派遣した。外交では和平を旨とし、順天元年(1010年)に宋へ使者を送って交趾郡王に封じられ、順天7年(1016年)には南平王に封じられた。仏教を篤く信仰し、万行は国師として国政を握った。昇龍の城外には多くの寺院が並び、順天10年(1019年)には正式な得度を定める詔を出した。
順天19年(1028年)、太祖は昇龍の龍安殿で亡くなり、寿陵に葬られた。皇太子の李仏瑪のもとに群臣が即位の準備を勧めに集まるなか、三人の弟が兵を潜ませて刺殺をうかがったが、仏瑪は難を逃れた。企みを知った仏瑪は武徳王を討たせ、他の二人を捕らえて即位した。これが李太宗である。太祖は今もベトナムで尊崇され、多くの都市に李太祖通りがある。2011年には、ベトナム海軍がロシアから購入したミサイルフリゲート艦の2番艦が、李太祖にちなんで命名された。
同じ年に亡くなった人物
- Fulbert of Chartres (1028年没)
- アルフォンソ5世 (レオン王) (1028年没)
- 藤原道長 (1028年没)
- コンスタンティノス8世 (1028年没)
- Euthymius of Athos (1028年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴァン・ティエン・ズン (2002年没)
- ドー・ムオイ (2018年没)
- レ・ドゥク・ト (1990年没)
- グエン・フー・ト (1996年没)
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