HISTORICAL PERSON · 1028年没

アルフォンソ5世 (レオン王)

5歳で即位したレオン王。アル・マンスールの襲撃で破壊されたレオンの再建を進め、1017年には貴族を召集したクリア・レヒアでレオン憲章を公布した。

生涯
1028年没
死亡地
ポルトガル共和国(ヴィゼウ県 / ヴィゼウ)
出生地
レオン王国
出典
世界地図
ポルトガル共和国(ヴィゼウ県)

伝記

アルフォンソ5世は、10世紀末から11世紀前半にかけてのレオン王である。994年頃に生まれ、999年に即位して1028年に没するまで王位にあった。父はベルムード2世、母はエルビラ・ガルシアで、母は後にカスティーリャ伯となるサンチョ・ガルシアの姉妹にあたるとされる。「高貴王」あるいは「良き法の王」とも呼ばれた。

父の死によって、わずか5歳で王位を継いだ。幼い王は母エルビラの摂政と、養育係であったメネンド・ゴンサレス伯の後見のもとに置かれた。メネンドはガリシアで王を育て、のちに王自身が彼を「ガリシアの公爵であり、私の代理人にして養育者」と記している。即位後の数年間、王の文書の多くはガリシアで発せられた。メネンドの子の一人ラミロ・メネンデスは、王の武具持ちを務めた。

成年に達した時期については、1008年、14歳のときとも、1017年頃ともいわれる。いずれにせよ、受け継いだのは政治的に不安定な王国だった。1008年にはメネンドが世を去り、アル・マンスールの子アブド・アル・マリクも亡くなったという。その後しばらく、母は隣のカスティーリャとの良好な関係を保った。しかし1014年、サンチョ伯に庇護されたバヌ・ゴメスの反乱で、この協調は終わった。王と伯の対立は深まり、それぞれの宮廷は相手側の不満分子の逃げ場となった。1017年3月にサンチョが死ぬと、王はカスティーリャ領のうち最も西にあるセア川とピスエルガ川のあいだの土地を取り戻した。これらはサンチョが王の幼年期に奪っていたものとされる。母エルビラは王とサンチョの不和のなかでオビエドに退き、同じ年に没したともいわれる。

1017年、王はレオンの大聖堂に貴族や聖職者を集め、王の会議を開いてレオン憲章を公布した。20か条の規定に、レオン市内の生活を定めた28か条が加えられた。この憲章は、レオンの封建体制に法的な裏づけを与えたものと評される。それまでの混乱に終止符を打ち、王権を回復することが狙いだった。治世の約20年は、アル・マンスールとその子の遠征で荒廃した王国とレオン市の再建に費やされた。王は一時的に秩序を取り戻したと考えられている。私生活では、1013年頃にポルトゥカーレ伯メネンド・ゴンサレスの娘エルビラ・メネンデスと結婚した。彼女は養育係メネンド伯と妻ムニアドナの娘である。二人のあいだには、のちにフェルナンド1世の妃となる1016年生まれのサンチャ(1067年没)と、1017年生まれで後継者となるベルムード3世(1037年没)が生まれた。エルビラは1022年に亡くなり、翌1023年、王はパンプローナ王ガルシア・サンチェス2世の娘ウラカと再婚した。ウラカは、サンチョ大王の姉妹にあたる。両者はともにフェルナン・ゴンサレス伯の子孫で血縁があったが、この結婚は結ばれた。二人のあいだにはヒメナという娘が生まれている。ヒメナは、一部の著者によればフェルナンド・グンデマリス伯の妻になったという。

1028年8月7日、王はポルトガルのヴィゼウを包囲している最中に、矢に当たって没した。遺体はレオンへ運ばれ、サン・イシドロ教会の王室霊廟に、両親とともに葬られた。石の棺は今も残り、その蓋にはラテン語の銘が刻まれている。跡を継いだ息子のベルムード3世は11歳で、継母ウラカの後見を受けた。王の死は、隣国ナバラにあおられた新たな動乱の時期を引き起こしたとされる。

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