伝記
陳聖宗は、大越の陳朝の第2代皇帝で、1258年から1278年まで在位した。名は陳晃、または陳日烜といい、聖宗は廟号である。1240年10月12日、旧暦では9月25日に、初代皇帝太宗と順天皇后の間に、第二皇子として生まれた。実質的には太宗の最初の実子にあたる。母の順天は、宰相の陳守度が強いた結婚によって太宗の后となった女性である。母を同じくする靖国王陳国康は、実は太宗の兄陳柳の子であり、太宗の長子とされながら、公式の後継には選ばれなかった。弟には、同じ母から生まれた昭明王陳光啓、招国王陳益稷、昭文王陳日燏らがいた。
1257年、皇太子の晃は最初のモンゴルの侵攻に立ち会った。大越軍は各地で敗れ、高官の中には、太宗の弟の欽天王陳日皎のように、宋へ逃れることを勧める者もいたが、太宗の固い信念と、陳守度、陳国峻らの働きによって、同年12月に侵攻は退けられた。翌1258年、旧暦2月24日に太宗が譲位し、晃は聖宗として即位し、年号を紹隆と定めた。ただし実権は、太上皇となった父が握り続けた。
聖宗は父とともに、侵攻と李朝末の混乱で傷んだ経済と行政の立て直しに取り組んだ。1261年6月には官吏を目指す者のため、文章と算術の二つの力を見る試験を開き、1266年3月には初めて科挙を行って、50人あまりを高い官職に取り立てた。人材の起用にも長け、弟の光啓を宰相に、黎輔陳と陳国峻を軍の指揮に据えた。王族には、貧しい者を雇って土地を耕させた。弟の益稷には、才能を認めて私塾を開くことを許し、のちに高官となる莫挺之らがそこで学んだ。軍の募集と再編も進め、北の国境には偵察隊を送り、元の動きを探らせた。クビライの元から服属を求められると、これを拒んで抗戦の姿勢を示した。1268年、元は都に監督官を送り、翌1269年に監督官となった張庭珍がクビライの勅書を届けたときも、聖宗は叩頭せず、立ったまま受け取ったという。
旧暦の1277年4月1日に父の太宗が没すると、聖宗は唯一の統治者となったが、翌1278年11月8日には、子の仁宗に位を譲って太上皇となった。1284年、チャンパ遠征のため鎮南王トガンの率いる元軍が派遣されると、ベトナムは領内の通過を拒み、チャンパと協力して応戦した。1285年正月、万劫と普頼山の戦いに敗れて紅河を渡られると、聖宗は都タンロンを明け渡し、天長・長安の地へ逃れた。しかし4月には攻勢に転じ、5月に元軍が撤退を始めるとこれを追撃し、6月6日にタンロンへ戻った。
1287年、元が水陸三方面から再び攻め込んだ。12月、元軍が紅河の東岸に達すると、聖宗は叔父を使者に送ったが交渉は決裂し、渡河した元軍に都を棄てて天長の海口、さらに海上へ逃れた。ベトナム軍が後方の連絡を断つと、元軍は食糧に乏しくなり、疫病も広がった。1288年2月末に全軍の撤退が決まり、3月、退く元の水軍を興道王陳国峻の軍が白藤江で待ち伏せて攻め、聖宗も遅れて加わって大勝した。4月28日に都へ戻った。この二度の侵攻では、太上皇の聖宗と皇帝の仁宗が最高指揮官として勝利に導いたとされる。聖宗は1290年7月3日に没した。
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