HISTORICAL PERSON · 1009年没

穆宗 (高麗王)

高麗の第7代王(在位997〜1009年)。景宗の長男で、即位後は生母の献哀王太后と金致陽が実権を握った。廃位を図られて康兆を呼んだが、康兆は大良院君(顕宗)を擁立し、穆宗は廃位・殺害された。

生涯
1009年没
死亡地
—
出生地
統一新羅(江原道 / 朝鮮)
出典
世界地図
統一新羅(江原道)

伝記

穆宗は、980年7月5日に生まれ、1009年3月2日に没した高麗の第7代国王である。在位は997年から1009年。姓は王、諱は誦といい、廟号ははじめ愍宗、のちに穆宗とされた。第5代国王景宗の長男で、母は献哀王后皇甫氏である。景宗が没したとき穆宗はまだ1歳で、王位は伯父の成宗が継いだ。父方の祖父は光宗、祖母は黄州皇甫氏の大穆王后であり、のちに王位を継ぐ従弟の顕宗がいる。この間、高麗は契丹からたびたび攻撃を受けており、983年10月、985年7月、992年12月に契丹が攻め込み、993年1月に講和が結ばれた。994年2月には高麗が契丹の年号を用いるようになった。

997年、成宗の死を受けて17歳で即位した。即位の年には土地制度の改革に取り組み、先代が3年前に定めた官僚の等級にもとづいて、18の等級に応じて田地を官僚に割り当てた。官僚は割り当てられた土地から俸給を得るが、土地の賃借権は国家が没収して管理し、官僚による直接の取り立ては禁じられた。土地を与えられた官僚が死ねば、土地は国家に戻った。この新しい土地法により、貴族の家が土地の権利を積み上げて子孫に伝えることが防がれたとされる。治世の初めには軍制の再編や、北方の防衛を固めるための平壌城の再建にも努めたといわれる。1007年には、仏教の重要な経典である宝篋印陀羅尼経が摠持寺で複製された。この経は、高麗時代の木版印刷のなかでも現存する最古級のものとされる。1005年には全州に節度使が置かれ、1002年には耽羅山の大噴火があり、1007年には耽羅の海中から瑞山が現れたという記録もある。

即位後は生母の献哀王太后が政治の実権を握り、彼女の寵愛を受けた親族の金致陽が政権の中心にいた。この二人は、王位継承の可能性があった大良院君(のちの顕宗)を地方の寺に追いやり、さらに穆宗の廃位をもくろんだ。英語圏では、太后と金致陽が自分たちの子を景宗の子として示し、それを王位に就けようとしたと説明される。危険を察した穆宗は、西北面巡検使の康兆を呼び寄せて阻止しようとした。

ところが康兆は金致陽一派を倒したうえで大良院君を擁立し、穆宗を廃位した。理由は、契丹の侵攻が迫る国の防衛を怠ったことなどとされ、穆宗に子がなかったことや、その同性愛が「病」だとする非難も口実に使われたという。穆宗は忠州へ流されることになったが、到着する前に殺害された。王妃は宣正王后劉氏で、後宮には邀石宅宮人金氏がいたものの、どちらとの間にも子はなかった。陵は恭陵と呼ばれたが、現在その所在は不明である。

康兆が擁立した顕宗の治世、1010年8月21日に契丹が高麗を攻め、顕宗は都の開京を離れて南西の羅州へ逃れることになった。穆宗の母の生涯は、2009年の韓国KBS2のドラマ『千秋太后』の題材となり、穆宗も登場する。2023年のKBS2のドラマ『高麗契丹戦争』にも登場する。

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