伝記
徳宗は、1016年6月9日に生まれ、1034年10月31日に没した高麗の第9代王(在位1031年-1034年)である。姓は王、諱は欽(ヒュム)、諡号は宣孝剛明光荘敬康大王という。父は顕宗、母は元成太后金氏で、金殷傅の娘にあたる。開京で生まれ、顕宗の長男であった。
1022年、わずか8歳で、長男として王太子に冊立された。1031年に父の顕宗が没すると、15歳で王位を継いだ。妃は敬成王后金氏、孝思王后金氏、敬穆賢妃王氏などで、敬成王后は顕宗と元順淑妃金氏の娘、孝思王后は顕宗と元恵王后金氏の娘であり、いずれも異母妹にあたる。王后との間に子はなかったが、後宮の女性たちとの間に二人の娘が生まれた。長女の殤懐公主は幼くして亡くなり、次女は王充に嫁いだ。
即位した徳宗は、罪の軽い罪人らを解放した。また大臣たちとの和合を重んじたため、政治的な安定が続いたとされる。治世の3年目からは、子どもや女性が金の髪飾りや刺繍をほどこした絹の衣服を身につけることが禁じられた。その後、高麗の王たちは仏教の菩薩戒を授かる回数が、前代よりはるかに多くなったという。国内の制度では、最高の教育機関である国子監に試験制度が取り入れられた。1034年には、顕宗の代から進められていた歴史編纂が実を結び、歴史書『七代実録』が完成した。
外交では、契丹(遼)に対して強い態度で臨んだ。契丹に鴨緑江の橋の工事をやめさせ、捕らわれた高麗人を返すよう求め、応じなければ国交を断つと圧力をかけた。この要求が拒まれると、北の国境の防備を固めることに力を注いだ。将軍の姜邯賛の助言により、第二の千里長城の築造を命じたのも、この方針の表れである。長城は鴨緑江の河口から東海岸に至る石の城壁で、徳宗の没後、1044年に弟の靖宗の代に完成した。1032年には契丹から亡命者を受け入れ、4月に契丹人27名、6月に渤海人50名が亡命したが、全員の入国を許した。契丹は1033年10月に高麗の定州を攻めたが、高麗軍に敗れて退却した。
徳宗は1034年10月31日に没した。死因は分かっておらず、墓の場所も知られていない。治世は短かったが、国内の和合を図りながら外交で強硬な姿勢をとった王であり、名君だったといえるとも評される。
同じ年に亡くなった人物
- ロマノス3世アルギュロス (1034年没)
- シャバンヌのアデマール (1034年没)
- エッツォ (ロートリンゲン宮中伯) (1034年没)
- ミェシュコ2世 (ポーランド王) (1034年没)
- オルドジフ (1034年没)