伝記
フォーキオンは、紀元前402年ころに生まれ、紀元前318年に没した古代アテナイの将軍であり政治家である。父は杵作りの職人だったと伝記作者イドメネウスは書くが、確証はない。若いころにはプラトンやクセノクラテスの講義を聴くためにアカデメイアに出入りしたとされる。その後は将軍カブリアスに従い、紀元前357年にカブリアスが戦死するまで地中海を中心に各地を転戦した。紀元前376年のナクソスの海戦では艦隊の左翼を率いて勝利に貢献したともいわれる。カブリアスの死後は、その子クテシッポスが軽薄な人物と知りながら面倒を見続けた。
フォーキオンはストラテゴス(将軍)に45回も選ばれ、出征の経験は扇動政治家の誰よりも豊富だった。紀元前350年ころ、ピリッポス2世がエウボイア島に進んだときには、少数の軍勢を率いてエレトリアの独裁者を追放し、捕虜になっていたギリシア人をすべて解放した。紀元前340年にピリッポスがペリントスとビュザンティオンの占領を図ると、アテナイはフォーキオンに軍を率いさせ、メガラとビュザンティオンを救援させた。一方で、ピリッポスが平和政策をとっている以上、和解を受け入れるべきだと民衆に説いたが、主戦派デモステネスの主張が通り、紀元前338年のカイロネイアの戦いでの敗北を迎えた。ピリッポスの死後は後継者アレクサンドロスと交渉し、アレクサンドロスもその手腕と勧告に従い、賓客として遇したという。
紀元前322年のラミア戦争では、マケドニア軍のアッティカ侵入を阻み、敵将ミキオンとレオンナトスを討ち取った。それでもデモステネスに対立してマケドニアとの協調を唱え、和議に力を尽くした。戦争に敗れたのち、マケドニアの将軍アンティパトロスの後援を得てアテナイの事実上の支配者となり、デマデスとともにマケドニアによるアテナイ支配の政策を支持した。紀元前319年にはマケドニア軍によるペイライエウス港の占領を阻止できず、翌年、マケドニアのポリュペルコンの策謀で民主政が回復されると、告発されて処刑された。処刑に臨んで嘆く仲間に、フォーキオンとともに死ねることを喜ばしく思わないのか、と語りかけたと伝えられる。しかしまもなくアテナイは公葬を決議し、像を建てた。
人柄は質素で厳格だった。生涯をメリテ地区の簡素な家で過ごし、妻がパンを焼き、自らも水を汲んだという。街でも戦場でも簡素な短衣をまとって裸足で歩き、極寒の日だけ外套を着たため、兵士たちはその服装を天気の目安にしたといわれる。人前で笑ったり泣いたりするのを誰も見たことがなかったと伝えられ、「高士」というあだ名を持った。民衆は議会でもっとも正直な人物とみなしたが、極端な反対論を唱えたため、議会では孤立しがちだった。アテナイが軍事的に弱体化していることを臆せず指摘し続け、ボイオティアとの国境紛争にもカイロネイアの戦いにもラミア戦争にも思いとどまるよう説いた。政治家としては買収に応じない点でアテナイでは異例の存在だった。雄弁な論敵に対しては、簡潔で重みのある言葉で応じたとされる。息子フォコスが酒と宴に溺れる放蕩者になると、質素な暮らしで知られるスパルタへしばらく送った。政敵が困っていれば助けることもあり、貧しいまま老年を迎えた。
その生涯はプルタルコスの『フォキオン伝』に描かれ、コルネリウス・ネポスなど後世の史家のほとんどがその恩恵を受けている。
同じ年に亡くなった人物
同じ地域に関係する人物
- コンスタンディノス・デメルジス (1936年没)
- カティーナ・パクシヌー (1973年没)
- ランプサコスのストラトン (紀元前268)
- スピリドン・ルイス (1940年没)
- Nikolaos Stratos (1922年没)