HISTORICAL PERSON · 紀元前323年没

アレクサンドロス3世

20歳でマケドニア王位を継ぎ、東方遠征でペルシア帝国を滅ぼし、ギリシアからインド北西部に至る大帝国を築いた。死後の分裂を経てヘレニズム時代が始まった。

生涯
紀元前323年没
死亡地
イラク共和国(バービル県 / バビロン)
出生地
ギリシャ共和国(ペラ)
出典
世界地図
イラク共和国(バービル県)

伝記

アレクサンドロス3世は、アルゲアス朝のマケドニア王で、アレクサンドロス大王の名で知られる。紀元前356年7月20日、都ペラで、ピリッポス2世と、エペイロスの王女オリュンピアスの間に生まれた。父の家系はヘラクレスを、母の家系はアキレウスを祖とするとされ、ギリシア世界でも比類のない家柄の子とみなされた。紀元前342年に父王がアテナイからマケドニア人の学者アリストテレスを家庭教師として招くと、彼は都から離れたミエザの学園で、紀元前340年までこの師に学んだ。「父から生を受けたが、高貴に生きることは師から学んだ」という言葉を残すほど、アリストテレスを尊敬したと伝わる。学友のなかには、のちに彼を支える将軍となる者もいた。

紀元前338年、一軍の将として父に従い、カイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍を破って初陣を飾った。精鋭の騎兵を率いて敵を崩したことが、勝利に大きく貢献したとされる。父王はコリントス同盟を結ばせて全ギリシアの覇権を握ったが、ペルシア遠征の準備中の紀元前336年に護衛の手で暗殺された。20歳で王位を継いだアレクサンドロスは、敵対者を除いてマケドニアを掌握し、トラキア人を討つ一方、反乱を起こしたテーバイを破壊してギリシアを再び従わせた。留守の本国は重臣アンティパトロスに任せ、紀元前335〜334年ごろにアケメネス朝ペルシアへの遠征に出る。グラニコス川の戦いでは自ら騎兵の先頭に立って突進し、敵将を投げ槍で倒して、将兵の信頼を得たという。紀元前333年のイッソスの戦いではダレイオス3世自らが率いるペルシア軍を敗走させ、王の母と妻と娘を捕らえた。和睦の申し出は拒み、進軍を続けた。

エジプトではペルシアの支配が根づいておらず、解放者として迎えられ、ファラオと認められた。彼はシワ・オアシスのアメンの聖地に赴き、ゼウスの子だとする神託を得たと伝わる。ナイル河口の西端に建てた都市が、のちのアレクサンドリアである。紀元前331年のガウガメラの戦いで、20万とも30万ともいわれるペルシア軍を破り、ペルセポリスに入って徹底的に破壊した。この破壊には、ペルシア戦争でアテナイのアクロポリスが焼かれたことへの復讐の意味もあったとされる。ダレイオス3世が部下のベッソスに殺されると、その遺体を丁重に葬り、ベッソスを攻めて処刑した。その後、ソグディアナとバクトリアで紀元前329年から327年まで苛烈なゲリラ戦を強いられ、将兵の士気は落ちた。この地では、クレイトス殺害事件や近習の陰謀事件も起きた。紀元前328年には現地の有力者オクシュアルテスの娘ロクサネを妃とした。

紀元前326年にインダス川を越え、ヒュダスペス河畔の戦いでパウラヴァ族の王ポロスを破った。さらに奥地へ進もうとしたが、部下が疲労を理由に拒んだため、やむなく引き返した。紀元前324年にスーサへ戻り、ネアルコスに命じてインダスからペルシア湾への航海を行わせた。紀元前323年6月10日、首都にする計画だったバビロンで熱病にかかり、32歳で亡くなった。

彼の帝国は、死後にディアドコイ戦争で分裂し、後継者たちに分割された。しかし自分の名にちなむ20あまりの都市を建て、ギリシア文化の東方への広がりは、ヘレニズムと呼ばれる新しい文化を生んだ。広い領域にドラクマなどの貨幣を流通させ、取引を活発にしたことも、業績に数えられる。古代から後世の軍人まで、彼は英雄として語り継がれている。

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