HISTORICAL PERSON · 紀元前338年没

商鞅

戦国時代の秦の政治家。魏から秦に入り孝公に登用され、法家思想に基づく什伍連座法や戦功への爵位授与などの変法で秦を強国にした。性急な改革で恨みを買い、逃亡・挙兵の末、秦軍に攻められ戦死した。

生涯
紀元前338年没
死亡地
中華人民共和国(陝西省 / 秦咸陽城遺跡)
出生地
中華人民共和国(濮陽市)
出典
世界地図
中華人民共和国(陝西省)

伝記

商鞅は、中国の戦国時代に秦で活躍した政治家・将軍で、法家として知られる。生没年は紀元前390年から紀元前338年とされる。姓は姫、氏は公孫、名は鞅といい、衛の公族の出であることから衛鞅とも呼ばれた。商鞅という呼び名は、のちに商・於の地に封じられたことにちなむ尊称である。法家思想にもとづいて秦の国政を改革し、後の天下統一の礎を築いたが、改革の性急さから多くの恨みを買い、最後は逃亡と挙兵の末に秦軍に攻められて戦死した。

若いころの公孫鞅は、魏の恵王の宰相公叔痤の食客となり、中庶子に任じられた。公叔痤は病に臥したとき、恵王に後継の宰相として彼を推したが、王は聞き入れなかった。そこで公叔痤は、用いないのなら殺すよう進言したと告げて逃げるよう勧めたが、彼は、私を用いよという言葉を王が採らないなら、殺せという言葉も採るはずがないと言って動かなかった。予想どおり、王は老いぼれの戯言と考え、彼を登用も誅殺もしなかった。彼は魏を去って秦へ入り、宦官の景監の伝手で若い君主の孝公に会った。最初は帝の道、次に王の道を説いたが孝公は退屈して居眠りし、三度目に程度を下げて覇の道を説くと、孝公は思わず身を乗り出すほど熱心に聴いたという。

信任を得た彼は法の改革を進めようとしたが、孝公は批判を恐れて迷った。彼は「疑行は名なく、疑事は功なし」と励まし、旧制の維持を唱える甘竜や杜摯に対しては、夏・殷・周はそれぞれ異なる法で王となったと反論した。紀元前356年、左庶長に任じられて第一次の変法を行った。民を五戸または十戸で組にして互いに監視・告発させ、罪を隠せば全員を連座させる、戦功に爵位で報いる、私闘を罰する、農業と紡績を奨励し商業や怠惰を戒める、といった内容であった。彼は、都の南門に置いた木を北門へ移せば賞金を与えると布告し、移した者に約束どおり五十金を与えて、法への信頼を示した。太子の傅の公子虔を鼻削ぎの刑に、教育係の公孫賈を黥刑に処したこともあり、その後は法が守られるようになった。10年ほどで田畑は開け、兵は強くなり、民の暮らしは豊かになったという。

紀元前350年、都を咸陽へ移し、第二次の変法で父子兄弟の同居を禁じ、集落を県にまとめて令と丞を置き、度量衡を統一した。紀元前340年には魏を攻め、旧友の魏の将軍公子卬を欺いて捕らえ、黄河以西の地を奪った。この功績で商・於の15邑に封じられ、商鞅と呼ばれた。魏は都を大梁へ移し、恵王は公叔痤の言葉に従わなかったことを悔やんだと伝わる。

しかし、変法は旧来の貴族の権限を削ったため、彼は多くの恨みを買っていた。腹心の趙良の忠告も退けたという。紀元前338年に孝公が死に、恵文王が立つと、公子虔らの讒言で謀反の罪を着せられた。逃亡先の宿では、旅券のない者は泊められないという彼自身の定めた法で断られ、法を作った弊害がここまで来たかと嘆いたと伝わる。魏にも追い返され、封地の商で兵を挙げたが戦死し、遺骸は車裂きにされた。恵文王以降も秦は彼の法を守り、秦が乱世を統一できたのは商鞅の法のおかげだとも評される。また、戦国時代には名将としても知られ、荀子は彼を田単らとともに名将に挙げたが、小手先の兵法にすぎないと批判した。『漢書』芸文志には彼の兵法書『公孫鞅』二十七篇が載るが、後に失われた。

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