伝記
黄巣は、唐末の反乱指導者である。874年から10年間、全土を転戦しながら反乱を指揮し、この一連の大乱は彼の名をとって黄巣の乱と呼ばれる。生年は不明だが、835年生まれとする説もある。曹州冤句県、現在の山東省菏沢市牡丹区の出身で、一族は代々塩の密売に携わり、その利益で富を築いていたという。若いころは騎射を得意とし、任侠を好んだ。一方で学問にも励み、何度か進士に挙げられたものの科挙には及第できず、塩賊となった。弟には少なくとも六人がいたとされる。この時期の唐は、安史の乱以後に節度使の力が増し、民衆の不満が各地の反乱となって噴き出していた。咸通年間の末には干ばつと水害による飢饉が起きたが、朝廷は税を軽くするどころか増税したため、生き延びた者たちが徒党を組んで蜂起したとされる。
乾符元年(874年)、同じ塩賊の王仙芝が数千の衆を率いて挙兵すると、黄巣も数千の衆を率いてこれに加わり、やがて反乱軍の中心人物の一人となった。二人は特定の根拠地を持たず、山東・河南・安徽で略奪と移動を繰り返した。876年、唐は懐柔策として王仙芝だけに官職を示した。黄巣はこれに怒って反対し、王仙芝の頭を殴ったと伝えられ、反乱軍は二つに割れた。877年春には鄆州を落として天平軍節度使の薛崇を殺し、さらに沂州を攻め取った。同年夏には尚君長の弟の尚譲と査牙山で合流し、いっとき王仙芝とも再び手を組んで、唐の将軍宋威を宋州で包囲したが、張自勉の軍に敗れて包囲を解いた。878年に王仙芝は官軍に敗れて戦死した。
その残党を合わせた黄巣軍は江南へ向かい、両浙・福建を経て、879年に広州へ入った。ここでアラビア商人など外国人商人を多数殺害している。のち北へ帰ることを目指し、桂州から潭州を経て長江を渡ったが、藩鎮軍に大敗した。そこで再び長江を南へ渡って東へ進路を変え、官軍の虚を突いて采石で長江を渡り、洛陽の南の汝州に入った。ここで自ら天補平均大将軍を名乗り、同年の秋に洛陽を陥落させた。さらに西へ進んで東の守りである潼関を突破し、その5日後に長安を占領した。皇帝僖宗は成都へ避難した。
黄巣は長安で皇帝に即位し、国号を大斉、年号を金統とした。入城後の軍は貧民には施しをしたが、官吏や富豪を憎んで略奪に走り、黄巣自身も抑えられないほどだった。唐の三品以上の高官は追放したが、四品以下の官僚は、貧民や群盗出身の兵に官僚の仕事はできないため、そのまま職に残した。やがて深刻な食糧問題が生じた。長安は江南からの輸送がなければ成り立たない都市であり、根拠地を得た黄巣軍はかつてのように逃げることができず、他の藩鎮勢力に包囲された。周辺では過酷な収奪が行われ、穀物の価格は平時の1000倍になり、食人が横行したという。
882年、同州防禦使だった朱温、のちの朱全忠が黄巣軍を見限って官軍に降った。さらに沙陀族出身の李克用が大軍を率いて討伐に加わった。883年、黄巣軍は李克用軍を中核とする唐軍に大敗して長安を退き、河南で追撃を受けて再び大敗し、壊滅した。黄巣は泰山付近の狼虎谷で、外甥の林言の介錯により自害したとされ、884年6月のこととされる。甥の林言に殺されたとする伝えもある。10年に及んだ乱は終わったが、これにより全国王朝としての唐は実質的に滅び、長安一帯を辛うじて治める一地方政権に転落した。黄巣は『題菊花』『詠菊』などの漢詩も残し、反乱への意気込みを詠んだ。
同じ年に亡くなった人物
- マリヌス1世 (ローマ教皇) (884年没)
- ヤフヤー・ブン・マイーン (884年)
- カルロマン2世 (西フランク王) (884年没)
- ハサン・イブン・ザイド (884年)
- アフマド・ブン・トゥールーン (884年没)
同じ地域に関係する人物
- ヨゼフ・フライナーデメッツ (1908年没)
- 康有為 (1927年没)
- 房玄齢 (648年没)
- 王禹偁 (1001年没)
- 孔子 (紀元前479年没)