HISTORICAL PERSON · 884年没

カルロマン2世 (西フランク王)

西フランク王(在位879〜884年)。兄ルイ3世と共に即位してブルゴーニュとアキテーヌを相続し、882年に兄の死で単独の王となった。ノルマン人の侵入に悩まされ、884年に狩猟中の事故で崩御した。

生涯
884年没
死亡地
フランス共和国(ウール県 / リヨン)
出生地
—
出典
世界地図
フランス共和国(ウール県)

伝記

カルロマン2世は、西フランク王国(カロリング朝)の国王で、在位は879年から884年であった。866年ごろ(867年ごろともいわれる)に、アキテーヌ王であった父ルイ2世(吃音王)と最初の妃アンスガルドの次男として生まれた。祖父は、カール大帝の孫にあたる禿頭王シャルル2世で、名門のカロリング家の出であり、兄はルイ3世、異母弟にシャルル3世がいる。ルイ2世が879年4月に世を去ると、一部の貴族は兄ルイ3世を単独の王とするよう主張したが、結局、兄弟がともに王に選ばれ、同年9月にフェリエールで戴冠した。両親の婚姻をめぐって生まれの正当性に疑問が投げかけられたが、二人の即位は承認された。

880年3月、兄弟はアミアンで父の遺領を分割し、兄がネウストリアを、カルロマンがブルゴーニュとアキテーヌを相続した。二人は、父の庶子ユーグが旧王国への権利を主張することを退ける点でも一致していた。ところが、シャルル2世の腹心だったプロヴァンス公ボソが二人への忠誠を拒み、プロヴァンス王に選ばれた。880年の夏、二人はボソに兵を向け、ベリー、オータン、ヌヴェールの各地方を鎮めるとともに、マコンやボソの領地の北部を奪った。さらに東フランク王カール3世とともにヴィエンヌを包囲したが、この時は落とせなかった。カール3世は秋のうちに包囲を離れ、イタリアへ向かったという。その後も遠征が重ねられ、882年の夏、オータン伯リシャールの包囲によってヴィエンヌはついに陥落した。

同じ882年8月に兄ルイ3世が急逝し、カルロマン2世は単独の王となった。しかし、王国はヴァイキングの侵入などにより悲惨な状態にあり、封建的な領主への反感もあって、その権力は極めて限られたものだったという。彼は兄とともに881年のソクール=アン=ヴィムーでヴァイキングに勝利しており、単独の王となってからも、882年10月にはソンム川に進み、エーヌ川沿いのアヴォーでヴァイキングを破ったとされる。また、ヴォルムスの集会でカール3世に対し、父が約束したというロタリンギア西部の返還を求めたが、認められなかった。しかし883年にはアブヴィル近郊のミアネでヴァイキングに敗れ、ソンム地方は荒らされた。この事態を受けて884年、王はコンピエーニュに有力者を集め、莫大な額の銀を払ってノルマン人に立ち去ってもらう決定がなされた。同年3月にはヴェルノンで、盗賊行為に最も重い刑を科す勅令を出した。これがカロリング朝の最後の勅令となった。

ノルマン人が去ると、王は少数の若い側近とともにウール地方のベズーの古い狩猟用の宮殿へ向かった。そして884年12月、猪狩りの最中に家臣のひとりに誤って脚を傷つけられ、数日後に亡くなった。没日は6日ごろとも12日ともいわれ、食い違いがある。17歳での死とも、約18歳での死ともいわれる。ボソの娘エンゲルベルガと婚約していたが、結婚はしておらず、子もなかった。遺体はサン=ドニに葬られたとされる。兄との共同統治は879年から882年まで続いた。王位は東フランク王であった従兄弟のカール3世が継いだ。異母弟のシャルルがまだ幼かったため、有力者たちが皇帝に摂政を求めたとされる。

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