伝記
孔子は、春秋時代の中国の思想家であり、儒家の始祖である。氏は孔、諱は丘、字は仲尼といい、孔子は尊称にあたる。紀元前552年、一説には紀元前551年に、魯国の鄹邑、現在の山東省曲阜のあたりで、鄹邑大夫の次男として生まれた。父の叔梁紇はすでに70歳を超え、三桓氏のうち比較的弱い孟孫氏に仕える軍人で、武勲を重ねたと伝わる。母の顔徴在は身分の低い若い巫女だったとされる。出生には諸説あり、『史記』は、尼丘という山に祈って授かったとも、正規でない関係から生まれたとも記す。いずれにしても貴い身分ではなかったようで、孔子自身も、若いころは賤しかったので卑近な仕事に多能なのだと語っている。
3歳で父を失い、母とともに曲阜へ移り、17歳のときに母も亡くして孤児となった。それでも勉学に励んで礼学を修めたが、どのように学んだのかはよく分かっていない。弟子の子貢は、先生はどこでも誰にでも学ばれ、決まった師はいなかったと答えたと伝わり、独学の人だったことがうかがえる。老子に教えを受けたとする説もある。魯は周公旦を開祖とする国で、周の古い礼制がよく残っており、孔子は周公旦を理想の聖人として慕い、夢に見なくなったのを老いた証しと嘆くほどだったという。この伝統文化が、のちの儒教の背景となった。一方、当時の魯は周辺の大国に翻弄される小国で、国内では三桓氏が実権を握っていた。また『史記』は、孔子の祖先が宋の人だったと記している。
紀元前534年、19歳のころに宋の幵官氏と結婚し、翌年に子の孔鯉が生まれた。28歳のころまでに魯に仕え、倉庫を管理する委吏、牧場を管理する乗田を務めた。紀元前518年には初めて弟子をとった記録があり、この年、周の都である洛陽へ遊学したとされる。紀元前517年、魯の内乱で昭公が季孫氏の攻撃に失敗して斉へ追われると、孔子も斉に亡命した。その途上で「苛政は虎よりも猛なり」の故事が起こったという。斉では音楽に感銘を受け、肉の味も分からなくなったと伝わる。魯に戻ってからはしばらく仕官せず、教育に力を注いだ。顔回、仲弓、子貢といった主要な弟子の多くはこの時期の入門とされる。実権を握った陽虎からの誘いにも応じなかった。陽虎とは体格や容貌が似ていたため、間違われて危難に遭ったこともあるという。のちには魯で大司寇の職にあった時期があるとされる。孔子は紀元前479年に世を去った。
弟子は約3000人といわれ、そのうち六芸に通じた者を七十子、特に優れた者を孔門十哲と呼ぶ。徳行の顔回、言語の宰我と子貢、政事の冉有と子路、文学の子游と子夏などである。孔子の死後、約400年をかけて弟子たちが教えをまとめたのが『論語』である。儒家は八派に分かれ、孟子は性善説を、荀子は性悪説を唱えた。戦国から漢の初めにかけては勢力が振るわなかったが、前漢・後漢を通じて徐々に伸び、国教となって中国思想の根幹を占めた。20世紀には新文化運動や文化大革命で厳しい批判を受けたが、近年は孔子学院などにその名が用いられている。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』の六書は六経として儒家の経典となった。釈迦、キリスト、ソクラテスと並んで四聖人に数えられる。
同じ年に亡くなった人物
- Dienekes (紀元前479)
- マルドニオス (紀元前479年没)
- クレオンブロトス (摂政) (紀元前479年没)
- 摩訶波闍波提 (紀元前 479年)
- アッピウス・クラウディウス・サビヌス・インレギッレンシス (紀元前 479年)