HISTORICAL PERSON · 648年没

房玄齢

唐の政治家・歴史家。杜如晦とともに太宗に仕えて玄武門の変で活躍し、貞観の治の実現に尽くした。『晋書』の編纂に加わり、謀略に長じた名相として杜如晦と並び房杜と称され、凌煙閣二十四功臣に列せられた。

生涯
648年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(山東省 / 淄博市)
出典
世界地図
中華人民共和国(山東省)

伝記

房玄齢は、唐の太宗李世民に仕えた政治家であり、歴史家でもある。生年は578年とも579年ともいわれ、648年に世を去った。斉郡臨淄県の出身とされ、清河の房氏の出で、曽祖父は北魏に仕えた将軍、父は隋の時代に山東で県令を務めた学者であった。若いころから聡明で学問に通じ、書にも巧みだったと伝えられる。

隋の開皇15年(595年)、十代のうちに進士に及第した。吏部侍郎の高構(高孝基とも記される)は「多くの人を見てきたが、彼ほど立派な人物は見たことがない。必ず大成するだろう」と評したという。ただ、その後まもなく父が病に伏し、病は10年に及んだ。玄齢は看病に尽くし、父の死後は5日間食を断ったとされる。のちに隰城県の県尉となった。隋末の混乱のなか、617年に李淵が挙兵すると、玄齢は李世民の陣に赴いて仕官を申し出た。李世民はひと目で旧知のように親しみ、幕僚に迎えたという。各地を転戦するたび、他の幕僚が財宝を集める一方で、玄齢は土地の人々に会って有能な人物を探し、李世民の幕下に加えた。

唐が建つと李世民は秦王となり、玄齢はその幕僚として仕え続けた。621年、洛陽を攻略した際には隋の官庁の記録の保全を図ったが、すでに王世充に破棄されていた。同年、李世民が文才ある幕僚を集めて研究や執筆に当たらせた際にも、玄齢はそこに加わった。同僚の杜如晦が地方官に任じられそうになると、玄齢は得がたい人材だから留めるべきだと李世民に進言し、杜如晦は幕下に残った。玄齢は計画と策略に優れ、杜如晦は決断が速く的確であったため、のちに「房謀杜断」と称され、二人は「房杜」と並び称されて名宰相の代名詞となった。

皇太子李建成や斉王李元吉との対立が激しくなると、玄齢と杜如晦はたびたび李世民に先手を打つよう勧めた。二人の智謀を恐れた李建成らは讒言によって二人を秦王府から遠ざけた。626年夏、李世民が行動を決意して二人を呼び寄せたとき、二人は高祖の禁令を恐れていったん拒んだが、尉遅恭の説得を受け、道士に変装して秦王の邸に入り、計画に加わった。こうして玄武門の変が成功し、李世民は帝位に即いた。

太宗の治世で、玄齢は貞観元年(627年)に中書令、貞観3年に尚書左僕射・梁国公となり、のち太子太師、司空を歴任した。貞観4年(630年)には監修国史に任じられ、正史編纂事業の総監を命じられたほか、自身は『晋書』の編纂にも加わった。貞観17年(643年)、凌煙閣二十四功臣が描かれた際には第五位に列せられた。『貞観政要』には太宗の諮問に答える人物としてたびたび登場し、帝業は草創と守成のどちらが難しいかと問われた際には、群雄の平定の困難さを挙げて草創の方が難しいと答えた。魏徴は守成の方が難しいと答え、太宗はこれを受けて、草創の難は過ぎたので今後は守成の難を共に克服しようと説いた。太宗は、玄齢が唐の天下統一前から自分に従って数々の患難を経験したからこそ草創を難しいと答えたのだろう、と述べている。この問答は「創業は易く守成は難し」の故事として名高い。唐が中国を統一した後の玄齢は、人材の養成と推挙にも努めた。高句麗遠征には当初強く反対したが、実行が決まると長安の留守を任された。晩年は病がちで、貞観22年(648年)に坊州で死去した。太尉・并州都督を追贈され、昭陵に陪葬された。俳優のジャッキー・チェンが子孫を自称していることでも知られる。

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