HISTORICAL PERSON · 1001年没

王禹偁

宋代の官吏・文人。太宗に右拾遺へ抜擢されたが、剛直な直言のため昇進を逃して何度も左遷され、48歳で没した。9歳から文才を示して古文運動を起こし、欧陽脩に追慕され『小畜集』を残した。

生涯
1001年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(山東省 / 巨野県)
出典
世界地図
中華人民共和国(山東省)

伝記

王禹偁(おう うしょう、954年 - 1001年)は、中国宋代の官吏・文人である。字は元之。黄州の知州を務めたことから王黄州と呼ばれる。

済州鉅野県(現在の山東省)の農家に生まれた。幼いころから文才があり、9歳のころから文章に長じ、5歳で詩を作り始めたともいわれる。太平興国8年(983年)に進士となり、成武県の主簿に任じられた。その後、長洲県の知県を経て大理評事に改められた。端拱元年(988年)に太宗から召されて右拾遺に抜擢され、都の開封に呼ばれて翰林院で働いた。翌年には左司諫・知制誥・判大理寺事に進んだが、のちに商州団練副使に左遷された。

淳化4年(993年)に再び召されて左正言となったものの、剛直にすぎるとして譴責を受けた。それでも累進して礼部員外郎・知制誥となり、至道元年(995年)には翰林学士・知審官院に至った。ところが誹謗を受けて工部郎中に下げられ、滁州知州、さらに揚州知州へと左遷された。真宗が即位すると知制誥に復帰し、咸平元年(998年)には『太祖実録』の編修に携わった。しかし同じ年に黄州知州へ左遷された。高官への批判によって迫害を受け、991年と998年を含め、3度にわたって地位を下げられて南方の遠隔地へ送られたとも伝えられる。直言直行を自分の任務と心得ていたため、しばしば昇進の機会を逃したという。

その3年後の1001年、蘄州へ赴任したが、着任して間もなく、48歳で世を去った。数か月後のことだともされる。文学の面では、古文運動を起こした人物とされる。詩では杜甫と白居易の伝統を受け継いだ。農民の出身で民衆の生活をよく知っており、山林を焼いて新田を開く農民の苦しい労働を「焼け跡の森の歌」と題する詩に詠んだほか、貧しい流民の運命や遠い辺境での兵役の辛さを「感流亡」「対雪」などの詩に詠んだ。「感流亡」では、自らも流された貧しい身でありながら、干ばつのために妻と病身の母、幼い三人の子を連れてさまよう農民に比べれば、まだ幸運にみえると詠じている。「対雪」では、「一畝の田も耕さず、矢を手に取ったこともない」役人でありながら、暖かく豊かに暮らす自分の境遇を恥じている。

こうした姿勢は後世にも慕われ、欧陽脩は王禹偁を追慕し、「書王元之画像側」という詩で顕彰した。郝懿行によれば、王禹偁はかつて李継遷のために制誥文の草稿を作ってやり、謝礼として馬50匹を贈られたが、受け取らなかったという逸話がある。著作には『小畜集』『小畜集外集』『集議』『五代史闕文』がある。『建隆遺事』も著したが、現存しない。

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