伝記
ジャーヒズは、9世紀のアッバース朝時代に活躍したイラクの文人である。本名はアムル・イブン・バフルといい、「アブー・ウスマーン」の通称と、バスラに由来する「バスリー」の呼び名を持つ。「ジャーヒズ」というあだ名は、眼球が張り出していることを意味する。神学者であり、博物学、文学、文法、修辞学、論争など多岐にわたる分野でアラビア語の散文作品を残した。
ヒジュラ暦160年、西暦776年ごろに南イラクのバスラで生まれた。アラブ部族の一つキナーナ族に属するマワーリー(被護民)の家系であったが、名家ではなく、家は非常に貧しかったとされる。父方の祖父はハバシュ出身の黒人奴隷であったとも、黒人のラクダ引きや荷役人だったとも伝えられ、伝えによって細部は食い違う。少年のころは運河沿いで魚を売って家計を助けたという。それでも学問への意欲は衰えず、バスラの大モスクや市場に集まる人々の議論に若いころから加わった。当時のバスラは、クーファと南イラクで最も栄えた町の座を競い、イスラームの教義や政治について活発な議論が交わされていた。彼はバスラ学派の学者たちのもとで言語学や語彙学、詩を学び、二十数年をかけてアラビア語詩、古代アラブの歴史、クルアーン、ハディースに通じたと伝えられる。ギリシア科学や、アリストテレスをはじめとするヘレニズム哲学の翻訳書にも触れた。
バスラにいたころにカリフ制についての文章を書いたのが物書きとしての出発点とされ、のちに文筆は彼の唯一の生計の道となった。母が帳面を山盛りにした盆を差し出し、書くことで食べていくのだと告げたという逸話も伝わる。生涯に約200冊を著したともいい、アラビア語の文法体系を根本から見直すことを早くに提案した書き手の一人でもあった。文筆活動が確実にたどれるのは、ヒジュラ暦200年、西暦815年ごろからである。そのころ書いたイマーム論の著作が、バグダードのカリフ、マァムーンの目に留まって称賛された。その後はカリフに招かれてバグダードへ上り、のちにはサーマッラーにも移り住み、膨大な著作のほとんどをこれらの都市で書いた。公職には就かなかったが、複数の宰相から援助を受け、書記や教師としても働いた。マァムーンとその後継者たちが支持した合理主義的なムゥタズィラ派の神学に連なる人物でもある。著作の大半はバグダードかサーマッラーで書かれたが、彼の思想に深く関わったのは、移り住んだ都市ではなく故郷バスラの知的・文化的な環境であったと指摘されている。
イブン・ナディームは彼の名で伝わる書物を約140点挙げ、そのうち75点が現存する。代表作は、動物を出発点に多様な話題を扱った七部構成の『動物の書』、人間のコミュニケーションを論じた『雄弁と明快の書』、吝嗇に関する逸話を集めて風刺した『けちんぼども』である。『動物の書』には自然選択や生態系にも通じる考えが見られるとも評価される。また、聖書の記述をアラビア語訳で活用した最初期のムスリムの一人でもあった。ジャーヒズ作とされるチェスに関する小論は伝わっているが、後世に別人が彼の名を借りて書いたものである。
晩年は半身不随となり、故郷バスラに引退した。ヒジュラ暦255年のムハッラム月、西暦868年12月から869年1月ごろに同地で亡くなったとされ、没年は869年ともいわれる。大量の書物が崩れ落ちて下敷きになり、窒息死したという伝承もあるが、確かなことは分からない。
同じ年に亡くなった人物
- アッバース・ブン・サイード・ジャウハリー (860年)
- エゼルバルド (ウェセックス王) (860年)
- ズンヌーン・ミスリー (860年(推定))
- コルビーのラトラムヌス (860年代没)
- リウドルフ (ザクセン公) (860年代没)
同じ地域に関係する人物
- アブー・ダーウード・シジスターニー (888年没)
- タルハ・イブン・ウバイドゥッラー (656年没)
- Malik, son of Dinar (748年没)
- シュフダ・カーティバ (1178年没)
- アブー・マフディー・アル=ムハンディス (2020年没)