HISTORICAL PERSON · 656年没

タルハ・イブン・ウバイドゥッラー

ムハンマドの教友で、スンナ派では楽園を約束された10人の一人。「寛大な者」と呼ばれた。ウフドの戦いで活躍し、ラクダの戦いで戦死した。

生涯
656年没
死亡地
イラク共和国(バスラ県 / バスラ)
出生地
サウジアラビア王国(メッカ)
出典
世界地図
イラク共和国(バスラ県)

伝記

タルハ・イブン・ウバイドゥッラーは、預言者ムハンマドの教友である。656年に没した。スンナ派では「天国を約束された十人」の一人として知られ、ムハンマドから「寛大な者」の称号を与えられたとされる。ウフドの戦いとラクダの戦いで重要な役割を果たし、ラクダの戦いで戦死した。一方、シーア派では第一次内乱での役割ゆえに批判的に見られている。

タルハは594年ごろ、メッカのクライシュ族タイム氏族に生まれた。父はウバイドゥッラー・イブン・ウスマーン、母はハドラム族出身のサアバ・ビント・アブドゥッラーである。系譜はムッラ・イブン・カアブでムハンマドの系譜と合流する。初期の改宗者であり、最初の8人の改宗者の一人とされる。アブー・バクルがイスラームに入った後、側近たちに入信を勧めたとき、その中にタルハ、アブドゥッラフマーン・イブン・アウフ、ウスマーン・イブン・アッファーン、サアド・イブン・アビー・ワッカースがいた。クルアーンの全節を暗記するハーフィズとして責任を分かち合った一人でもあった。614年から616年のムスリム迫害の際には、ナウファル・イブン・フワイリドがタルハをアブー・バクルとともに縛り付けて放置した。タイム氏族からは誰も助けに来ず、二人はのちに「二人一緒に縛られた者」と呼ばれた。

622年9月、シリアへの商用の旅から戻る途中、タルハはメディナへ移住するムスリムたちに出会った。彼らにシリアの衣服を与え、メディナの共同体が預言者の到着を待ちかねていると伝えた。ムハンマドとアブー・バクルが先へ進む一方、タルハは身辺を整えるためメッカに戻り、その後アブー・バクルの家族に同行してメディナに移り住んだ。最初はアスアド・イブン・ズラーラの家に身を寄せたが、のちにムハンマドから土地を与えられ、自分の家を建てた。サイード・イブン・ザイドとはイスラームにおける兄弟とされた。バドルの戦いでは、ムハンマドの命でアブー・スフヤーンの隊商を探す偵察に出ていたため戦えなかったが、戦利品の分け前は参戦者と同じように与えられた。

ウフドの戦いでタルハは際立った働きをした。ムスリム軍の大半が逃げる中、ムハンマドのそばを離れなかった。ムハンマドの顔に向かう矢を自分の手で受け、その結果、人差し指と中指を失った。頭にも二度傷を受け、傷は全部で39か所とも75か所ともいわれる。戦いの終わりごろ、重傷と出血のために気を失い、手は麻痺したままになった。この防御の功により「生きた殉教者」の異名を得た。アブー・バクルはウフドの戦いを「タルハの日」と呼んだという。塹壕の戦いをはじめムハンマドの遠征のすべてに加わり、ズー・カラドの遠征では私財で作戦を支えたため、「タルハ・アルファイヤード(気前のよい者)」とも呼ばれた。

632年7月の第3週、自称預言者トゥライハの背教者勢力がメディナに迫った。アブー・バクルは精鋭の護衛・警備部隊を編成し、タルハ、アリー、ズバイルにそれぞれ約3分の1を統率させた。ラシドゥーン・カリフ時代を通じて、タルハは諮問評議会の有力な一員でもあった。635年から636年にかけて、カリフ・ウマルはカーディスィーヤでササン朝軍と戦う作戦を評議会に諮った。ウマルは自ら出陣するつもりだったが、タルハら年長の助言者たちが首都にとどまるよう促し、サアド・イブン・アビー・ワッカースが総司令官となった。のちにササン朝側の軍勢が結集していると聞くと、ウマルはタルハらを集めて会議を開き、アリーの助言に従って自ら出ず、ヌウマーン・イブン・ムカッリンをナハーヴァンドへ向かう主力軍の指揮官に任じた。

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