伝記
アウレリオは、アストゥリアス王国の王(在位768年〜774年)である。740年ごろ、レオンで生まれたとされる。父はカンタブリア公フルエーラで、その父はカンタブリア公ペドロである。アルフォンソ1世の甥にあたり、先代の王フルエーラ1世とは従兄弟の間柄であった。弟には、のちに789年から791年まで王位にあったベルムード1世がいる。
フルエーラ1世が宮廷クーデターで暗殺されると、その後継として貴族らによって王に選ばれた。戴冠はおそらく、現在のサマ・デ・ラングレオの礼拝堂で行われたとされる。
治世は比較的静かで平穏だったらしく、中世の年代記にはほとんど言及がない。年代記に書かれた唯一の出来事は、臣下がその領主に対して立ち上がった反乱である。反乱の起きた場所は知られていないが、これはイベリア半島の歴史で記録された最初の反領主運動とされ、アウレリオはこれを鎮圧した。また、当時の慣例に従い、複数の乙女と引き換えにして南の地を支配するイスラム勢力との和平が交渉されたと信じられている。乙女を送ったこと(エントレゴ)が、現在のサン・マルティン・デル・レイ・アウレリオにあるエル・エントレゴ地区の地名の由来になったという伝説がある。
アウレリオは、当時ラングレオの一部だったサン・マルティン・デル・レイ・アウレリオを本拠としており、ここが事実上の王国の首都であったらしい。6年あまりの治世ののち、774年にこの地で病没した。年代記は、アウレリオの妻や子供についてふれていない。次の王となったのは、アルフォンソ1世の娘アドシンダを妻としていたシロである。
遺骸の所在については、中世アストゥリアスの年代記どうしの記述が食い違い、歴史家の見解も分かれている。『アルフォンソ3世年代記』は、居所に近いラングレオの谷にあるサン・マルティン・デ・トゥールの教会に葬られたとし、そこには「レイ・アウレリオ」と刻まれた墓がある。13世紀に書かれた『スペイン史』(第一総合年代記)は、カンガス・デ・オニスに葬られたとする。さらに歴史家エステバン・デ・ガリバイは、父フルエーラとともに、ソリア県ヤングアスにあった今は失われたサン・ミゲル教会に葬られたと主張している。
同じ年に亡くなった人物
- Abu 'Amr ibn al-'Ala' (774年没)
- アブー・ミフナフ (774年)
- 不空金剛 (774年没)
- ウザイ (774年)
同じ地域に関係する人物
- Rosario de Acuna (1923年没)
- レオポルド・アラス (1901年没)
- エルビラ・ガルシア・デ・カスティーリャ (1017年没)
- Vicente Lopez Carril (1980年没)
- ペドロ・サバリャ (1997年没)