HISTORICAL PERSON · 839年没

イブラーヒーム・イブン・アル=マフディー

アッバース朝の王族・詩人・音楽家。バグダード市民に擁立され一時対立カリフとなったが降伏し、後年は歌謡の革新者として名声を得た。

生涯
839年没
死亡地
イラク共和国(サラーフッディーン県 / サーマッラー)
出生地
イラク共和国(バグダード)
出典
世界地図
イラク共和国(サラーフッディーン県)

伝記

イブラーヒーム・イブン・アル=マフディーは、アッバース朝の王族であり、歌手、作曲家、詩人でもあった人物である。779年に生まれ、839年に没した。三代目カリフ、アル=マフディーの子として生まれ、一時はバグダードでカリフを称したが、やがて投降して許され、後半生を音楽家・詩人として過ごした。

父アル=マフディーは複数の妃との間に多くの子をもうけており、イブラーヒームもその一人である。母シャクラはタバリスターンの王侯の娘で、二代目カリフ、マンスールがタバリスターンを征服した際にバグダードの宮廷へ連行され、ターイフで教育を受けたのちマフディーに献上された女奴隷であった。肌の色が浅黒かったのは母ゆずりとされる。四代目カリフ、アル=ハーディーと五代目カリフ、ハールーン・アッ=ラシードとは異母兄弟にあたり、同じく歌手として名高いウライヤ・ビント・アル=マフディーは異母姉弟の関係にあたる。イブラーヒームはヒジュラ暦162年ズー=アル=カアダ月1日前後、ユリウス暦で779年7月20日ごろに、バグダードのルサーファ宮殿で生まれたとされる。体が大きかったため、「龍」を意味するアッ=ティンニーンとあだ名された。人徳があり学識にすぐれ、度量があって洗練された言葉づかいをし、詩文の才は並外れていたといわれる。父の没時には6歳で、音楽家でもあった母から音楽の素養を授かったとされる。

ヒジュラ暦200年(815年から816年)以後、異母弟アル=アミーンとの内乱に勝ったカリフ、アル=マァムーンは、支持基盤のあるホラーサーン地方のメルヴにいて、首都バグダードを留守にしていた。マァムーンは自身の後継者にターリブ家のアリー・アッ=リダーを指名した。この決定にバグダードのアッバース家の人々は強く不満を抱き、イブラーヒームこそカリフであると主張しはじめた。817年7月に彼らはイブラーヒームに忠誠を誓い、7月20日には他のバグダード市民も続いた。ことは秘密裏に進められ、7月24日に公表されて、マァムーンの退位とイブラーヒームの即位が宣言された。君主としての称号は「祝福される者」を意味するアル=ムバーラクであった。

マァムーンが反乱鎮圧のためホラーサーンから軍を動かすと、イブラーヒームは自分の命が危ういと悟り、819年6月14日に投降した。同年8月11日、マァムーンはバグダードに入城した。タバリーによれば、イブラーヒームの統治は1年と11か月と12日間に及んだ。投降後は許され、詩人・音楽家として余生を送った。並外れた声域に恵まれた当時最も才能ある音楽家となり、「冗長で即興的な」ペルシア型の歌謡を推し進めた革新者でもあったという。音楽に関する論考を著したとも伝えられ、宮廷の音楽と詩の集まりにも加わった。

料理にも通じ、アラビア語の料理書『キターブ・アッ=タビーフ』を著したとされるが、この書は今は失われている。愛妾で料理人でもあったバディアとともに、また彼女のために書いた書とされ、調理の手順や分量、食卓の作法と衛生を記していたという。兄ラシードのもとで味わったシクバージュという料理を彼女に作らせたのが出会いの逸話として語られ、彼は詩を作って彼女に贈ったという。後世のアンダルスの無名の料理書は、彼の名を冠した章に14の料理法を載せている。イブラーヒームは、ヒジュラ暦224年ラマダーン月7日、ユリウス暦で839年7月23日にサーマッラーで亡くなった。葬儀の祈祷文は甥にあたるカリフ、アル=ムゥタスィムが読み上げた。

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