伝記
エグバートは、イングランドの七王国の一つ、サクソン人の国ウェセックスの王である。769年頃に生まれ、802年から839年まで王位にあった。日本語では、エグバード、エジュベルフト、エグベルトなどとも訳される。イングランドを初めて統一した王として知られるが、その評価には留保が付く。
出自については歴史家の意見が一致しない。アングロサクソン年代記の古い写本の冒頭には系譜があり、息子エゼルウルフからエグバート、その父エアルフムンドをさかのぼり、ウェセックスの王イネの弟イングルドを経て、王家の祖チェルディッチにつながるとされる。一方、父はケント王国の王族であり、ウェセックスの系譜は在位中に王権の正統性を補うため作られたのではないかとする説もある。当時の背景として、757年から796年まで在位したオファは八世紀後半のイングランドで最大の勢力であり、ウェセックス王キュネウルフは一定の独立を保ったらしいが、779年にはベンシントンの戦いでオファに敗れている。エアルフムンドは784年にケントの王として年代記に現れるが、その後の動向は記録がなく、同じころケントではマーシア王オファの支配が強まっていた。ウェセックス王キュネウルフの暗殺後に王位を求めたが失敗し、マーシアのオファとウェセックスのベオルフトリックに追われ、780年代にフランク王国のカール大帝の宮廷へ亡命したという。802年にベオルフトリックが没すると帰国し、王位に就いた。
即位後の約20年間は、ほとんど分かっていない。当時、南部イングランドの諸王国はマーシアの覇権下にあり、エグバートはウェセックスの独立を保ち続けたと考えられている。転機は820年代に訪れた。マーシア王ベオルンウルフを破った戦いは、823年とも825年ともいわれるが、この勝利でマーシアの優位は終わり、エグバートはイングランド南東部にあったマーシアの従属地域を手中に収めた。次のマーシア王も破り、827年にはマーシアとハンバー川以南を支配下に置いたとする記述もある。829年にはマーシア王ウィグラフを追ってマーシアを一時直接統治し、同じ年にドアでノーサンブリア王の服従を受けた。年代記はこの結果を踏まえ、彼を広大な地域の支配者を意味するブレトワルダと呼んだ。
しかし、この優位は長く続かず、一年ほどでウィグラフがマーシアの王位を取り戻した。それでもウェセックスはケント、サセックス、サリーの支配を維持し、これらは息子エゼルウルフが副王として治めた。エグバートが839年に没すると、エゼルウルフが後を継いだ。妻の名は不明で、十五世紀の年代記はレドブルガという名を挙げ、カール大帝の親族とするが、成立が遅いため歴史家は退けている。半姉妹とされるアルブルガは、ウィルトンの州長官ウルフスタンの妻で、802年の夫の死後に尼となり、のちに修道院を創った功で聖人と認められた。
それまでウェセックスの王位は、チェルディッチの末裔による権力闘争で決まっていたが、エグバート以降は彼の血統が継ぐようになった。その子孫は、ウェセックス、のちにはイングランド全体を、1013年まで途切れることなく治めた。ただし彼が名乗ったのはブレトワルダであって、イングランド王を初めて称し、この地を再統一したアゼルスタンを初代君主とする見方が多い。
同じ年に亡くなった人物
- イブラーヒーム・イブン・アル=マフディー (839年没)
- Sicard of Benevento (839年)
- Aznar Galindez I (839年)
- ウィグラフ (839年)
同じ地域に関係する人物
- ジェームズ・ドナルド (1993年没)
- シドニー・ハーバート (初代ハーバート・オブ・リー男爵) (1861年没)
- ジェームズ・ワイアット (建築家) (1813年没)
- セシル・ビートン (1980年没)
- Ewart Horsfall (1974年没)