HISTORICAL PERSON · 869年没

ムウタッズ

アッバース朝カリフ。先代から譲位され即位したが軍閥への支払いを拒み拷問の末に退位させられ、まもなく死亡した。

生涯
869年没
死亡地
イラク共和国(サラーフッディーン県 / サーマッラー)
出生地
イラク共和国(サーマッラー)
出典
世界地図
イラク共和国(サラーフッディーン県)

伝記

ムウタッズは、847年に生まれ869年に没したアッバース朝の第13代カリフ(在位866年-869年)である。第10代カリフのムタワッキルと、ギリシア系の女奴隷カビーハとの間に生まれた。在位した時期は、サーマッラーの無政府状態と呼ばれる、カリフ権力がきわめて不安定になった時代にあたる。

849年、ムタワッキルは三人の息子を後継者に指名し、各地の統治と収入を割り当てた。長男のムンタシルは第一の後継者とされてエジプトやジャジーラなどを受け取り、ムウタッズは東方でターヒル家の総督の領地を監督する役目を負った。三男のムアイヤドはシリアを任された。しかし父の寵愛は次第にムウタッズに傾き、側近のファトフ・イブン・ハーカーンや宰相ウバイドゥッラーらの勧めもあって、ムウタッズを第一の後継者にしてムンタシルを外すことまで考えるようになった。この対立の背景には、ムウタッズをアッバース家の伝統的な有力者が支え、ムンタシルをトルコ系やマグリブ系の親衛軍が支えるという構図があったとされる。

861年10月、トルコ系の指揮官たちが父の暗殺を企て、ムンタシルもこれに加わるか、黙認した。12月10日から11日にかけての夜、ムタワッキルとファトフは殺され、ムンタシルがカリフとなった。ムウタッズは兄に忠誠を誓うために呼ばれて家を空けており、数千人の支持者が宮殿を襲うよう促したときも、「われらの主は彼らの手の中にある」と言って拒んだという。862年4月、トルコ系の指揮官ワシーフとブガーの圧力で、ムウタッズはムアイヤドとともに後継の権利を放棄した。同年6月にムンタシルが後継者を定めないまま亡くなると、トルコ系の指揮官たちはムンタシルの従兄弟ムスタイーンを新しいカリフに選んだ。サーマッラーではムウタッズを支持する大規模な暴動が起こり、鎮圧されたものの双方に多くの死者が出た。ムスタイーンは二人が権利を主張することを恐れ、年に8万ディーナールの手当を提示して懐柔しようとしたが、まもなく財産を没収し、ムウタッズをジャウサク宮殿の一室に幽閉した。タバリーによれば、その財産は1000万ディルハムと評価された。

865年にトルコ系指揮官どうしの対立からムスタイーンがバグダードへ去ると、情勢は一変し、866年1月、ムウタッズは18歳で、政争に敗れたムスタイーンから譲位されて即位した。美少年だったという。即位すると、トルコ系の軍人に対抗してカリフの権威を取り戻そうとし、宰相アフマド・イブン・イスラーイールの助けでワシーフとブガーを除いたが、成果は限られた。ターヒル家が衰えたこともあり、均衡を保つ力を失っていた。一方で、功労があり後継者にも指名していた弟が不仲になると殺し、失脚したムスタイーンも殺害して、いずれも自然死と公表したとされる。

やがてトルコ系の有力者サーリフ・イブン・ワシーフらに金を求められたが、軍に払う資金を見つけられなかった。裕福な生母に頼んでも断られたため、支払えなかった。宮廷に押しかけた軍人たちは彼を拷問して退位を迫り、ムウタッズはやむなく従兄弟に譲位した。その後5日間の拷問を受けて、869年7月16日に24歳で死んだ。この死も自然死と公表された。身を隠していた生母は捕らえられて財産を没収されたが、その額は息子が強要された金額と同額だった。息子のイブン・アル=ムウタッズは有名な詩人となった。

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