HISTORICAL PERSON · 929年没

バッターニー

アッバース朝時代にシリアで活躍した天文学者・数学者。三角法の多くをヨーロッパに伝え、彼の『天文表』はコペルニクスら中世の天文学者に引用された。

生涯
929年没
死亡地
イラク共和国(サラーフッディーン県 / サーマッラー)
出生地
トルコ共和国(ハッラーン)
出典
世界地図
イラク共和国(サラーフッディーン県)

伝記

アル=バッターニーは、アッバース朝時代の天文学者、数学者で、ラテン語ではアルバテグニウスなどの名で言及される。生年は850年ごろとも858年より前ともされ、没年は929年である。長い正式名の中の「サービー」という通称は、家がハッラーンのサービア教徒の共同体につながることを示唆している。この共同体は星を崇める宗教を持ち、メソポタミアの数学と天文学への関心を受け継いでいたという。同時代の学者サービト・イブン・クッラも同じ信仰の人だった。ただしバッターニー自身は、ムハンマドという名からもムスリムであったことが確かである。西洋の歴史家の一部は彼を王族のように高貴な生まれだと主張したが、伝統的なアラブの伝記にそうした記述はない。

生まれはジャズィーラ地方の都市ハッラーン(いまのトルコ南部シャンルウルファ近郊)で、父は有名な科学機器の職人だったとされる。生涯についてはほとんど分かっていない。おもにシリア北部のラッカで活動し、877年から918年か919年までここで暮らした。この間にアンティオキアにも滞在し、901年の日食と月食を観測している。伝記作者イブン・アン=ナディームによれば、老年になって経済的に苦しくなり、ラッカからバグダードへ移らざるをえなかったという。没した場所については、ダマスカスとする資料と、サーマッラー近郊のカスル・アル=ジスとする資料がある。後者では、ラッカの一族のために不当な課税の訴えをバグダードで解決して戻る途中だったと伝える。

彼は当時のアラブ世界で最も観測の精度が高い天文学者の一人とされ、「アラブのプトレマイオス」とも呼ばれた。ラッカに私設の天文台を設け、アストロラーベ、日時計、渾天儀などの器械をそなえ、器械は大きいほど目盛りが細かくなって精度が上がると考えたという。41年にわたって球面三角法を用いた観測を行い、489個の星の恒星表を作ったと伝えられる。観測から、黄道傾斜角を23度35分と算出し、春分点の歳差を1年に約54.5秒、つまり66年で1度と求め、1太陽年を365日5時間46分24秒と算出した。プトレマイオスが記録した太陽の遠地点の位置が動いていることも見いだし、太陽と月の運動の表を新たに作った。地球と太陽の距離が1年の間に変わることに気づき、金環食が起こる理由を理解したともされる。その測定値は、何世紀も後のコペルニクスの測定より正確なことさえあったといい、観測地のラッカが赤道に比較的近かったことが、精度に有利に働いたのではないかとする研究者もいる。何世紀も権威とされたプトレマイオスの計算結果を訂正できた点でも評価される。

数学の分野では、正弦(サイン)と正接(タンジェント)を計算に用い、ギリシアの幾何学的な方法に代えた。これはインドの数学者アリヤバータとは独立の発想であったとみられる。さらに、コタンジェントの表を計算し、球面三角法の定理も整理した。この三角法を使って、礼拝の際に向く方角であるキブラを求める式も作り、これは約一世紀後にビールーニーがより正確な方法を出すまで広く使われた。代表作は『サービア天文表』である。1134年から1138年のあいだにプラトー・ティブルティヌスがラテン語に訳し、1537年にはニュルンベルクで印刷された。コペルニクスらヨーロッパの学者に引用され、クラヴィウスは暦の改革に、ティコ・ブラーエ、ケプラー、ガリレオ、ハレーは観測値に用いた。月のクレーターなど多くの事物に彼の名が残る。

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