HISTORICAL PERSON · 457年没

マルキアヌス

東ローマ皇帝(在位450〜457年)。テオドシウス2世の姉との結婚で即位し、フン族への補助金を打ち切ってこれを破った。カルケドン公会議を招集し、財政を立て直して700万ソリドゥスの金貨を国庫に残した。

生涯
457年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / コンスタンティノープル)
出生地
ブルガリア共和国(トラキア)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

マルキアヌスは、392年頃にトラキアかイリュリアで生まれ、450年から457年まで東ローマ帝国の皇帝の位にあった人物である。初期の経歴には記録が乏しい。歴史家は背が高く足に何らかの障害があったと伝える。父は軍人で、若い頃にトラキアで軍に入り、421年から422年の戦役の頃にはおそらく軍の指揮官の地位に達していた。ただしリュキアで病を得て、この戦役には加わらなかった。そこで彼を看病したタティアヌスを、のちに彼は首都長官に任じている。やがて総司令官アスパルの個人補佐官にまで昇り、430年代初めにはアフリカ属州でアスパルに仕えたが、432年にヴァンダル族との戦いに敗れて捕らえられた。後世の作家は、捕虜の間にヴァンダル王ガイセリックが彼の将来の即位を予言したと記すが、おそらく創作と思われる。その後の消息は、テオドシウス2世の死後まで史料に現れない。

テオドシウス2世の時代、帝国は外敵に悩まされていた。ヴァンダル族は北アフリカを征服し、439年にはカルタゴを占領した。北方ではアッティラのフン族が、毎年の金の補助金を受け取っていたが、要求は倍増し、442年以降はさらに攻勢を強めた。皇帝は最終的に補助金の継続を約束し、450年に死ぬまで支払いを続けた。

450年7月28日に皇帝が乗馬中の事故で急死し、東ローマは60年ぶりに後継者問題に直面した。皇帝に息子はおらず、後継者の指名もなかった。死の床でマルキアヌスに帝位を遺したとする記述もあるが、支持者が後から作った宣伝と考えられている。マルキアヌスは約15年にわたりアスパルとその父に忠実に仕えており、蛮族の出身で自ら帝位に就けないアスパルが、比較的無名な彼を推した。1か月にわたる交渉のなかで、テオドシウス2世の姉プルケリアとの結婚が成立した。彼女は前帝の宗教政策を改め、教会会議を開くことを条件に同意したとみられている。プルケリアは413年に14歳で立てた処女の誓いを、結婚後も守り続けたという。この結婚は、テオドシウス家の血統を通じて彼の統治を正当化した。

450年8月25日に即位すると、彼は政策を大きく転換した。前帝に影響力を及ぼしていた宦官の侍従長クリュサフィウスは殺害あるいは処刑された。またアッティラとの条約を破棄して補助金を打ち切り、友好的なら要求に応じる余地もあるが、襲来すれば撃退すると語った。アッティラはこれに怒ったが、計画を変えず、451年に西ローマ帝国へ侵攻してカタラウヌムの戦いで防がれた。452年にアッティラがイタリア北部を荒らしているあいだ、マルキアヌスはドナウ川を越えてハンガリー平原に攻め込み、フン族を破った。453年にアッティラが死ぬと、連合の分裂を利用して東ゴート族を同盟部族として帝国内に受け入れた。

宗教面では、カルケドン公会議を招集した。ここでイエス・キリストは一つの位格に神性と人性の二つの本性をあわせ持つとするカルケドン信条が採択された。しかしこれは、シリアやエジプトで主流だった単性論派の排斥につながり、彼らは東方諸教会を形成してカルケドン派から分かれていった。一方で行政の効率化と財政の再建にも成功し、457年1月27日の死の時には、国庫に700万ソリドゥスの金貨を残したという。フン族への補助金と戦争で疲弊していたことを思えば驚くべき成果とされる。後継には、アスパルの推挙により、50歳の軍司令官レオ1世が選ばれた。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物