伝記
聖武天皇は、日本の第45代天皇である。701年(大宝元年)、文武天皇の第一皇子として生まれた。母は藤原不比等の娘の宮子である。諱は首(おびと)といい、伊勢大鹿首が養育したことに由来するとする説がある。707年、七歳のときに父と死別し、母の宮子も心的障害に陥ったため、長らく会うことがなかった。病気の癒えた母と対面したのは、37歳のときだったという。同年、祖母の元明天皇が即位した。714年に元服して立太子されたが、病弱であったことや、皇親勢力と外戚の藤原氏との対立もあって即位は延び、翌715年には伯母の元正天皇が皇位を継いだ。24歳のとき、元正天皇から譲られて即位した。
天武天皇と持統天皇の血を引くとはいえ、皇族ではない母をもつ皇子の即位は異例とされ、権力基盤は安定していなかった。そのため即位と同時に、当時九名いた議政官の全員を昇叙するか益封し、その18日後にも諸王や諸臣の昇叙を行った。以後、即位時の臨時の昇叙は慣習として定着した。治世の初期は皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。藤原氏は光明子(父は藤原不比等、母は県犬養三千代)の立后を願ったが、皇族しか皇后になれない慣習があり、長屋王は反対した。729年に長屋王の変が起こって長屋王が自害すると、光明子は非皇族として初めて皇后に立てられた。この変は、不比等の息子である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている。
737年に天然痘が大流行し、藤原四兄弟をはじめ政府高官のほとんどが病死した。長屋王の弟の鈴鹿王を知太政官事に任じて、辛うじて政府の体裁を整えた。740年には藤原広嗣の乱が起こり、その最中に天皇は突然、伊勢国や美濃国へ行幸を始め、平城京に戻らないまま恭仁京へ遷都した。以後約5年のあいだ遷都が目まぐるしく繰り返され、『続日本紀』に記されたこの時期は彷徨五年と呼ばれる。詳しい動機は定かでないが、その間には火災や大地震にも見舞われた。災害や疫病が多発したため天皇は仏教に深く帰依し、741年に国分寺建立の詔を、743年に東大寺盧舎那仏像造立の詔を出した。遷都は官民の反発が強く、最終的に平城京へ復帰した。藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は光明皇后の異父兄の橘諸兄が執った。743年には墾田永年私財法を定めたが、これによって律令制の根幹の一部が崩れることになった。744年には皇子の安積親王が脚気のため急逝し、藤原仲麻呂による毒殺とみる説がある。
749年、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位し、太上天皇となった初の男性天皇となった。自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家し、朝廷が慌てて手続をとったともいわれる。752年に東大寺大仏の開眼法要を行い、754年には唐僧の鑑真が来日して、皇后や天皇と会った。同じころ、長く病んでいた母の宮子と死別した。仏教政策をめぐっては、天皇が行基や知識の活動に関心を抱き、民衆を巻き込んだ大仏造立を進めたのに対し、国分寺・国分尼寺の建立を通じて父不比等の路線を継いだ皇后とのあいだに、仏教観の対立が生まれたとする見方もある。
756年、天武天皇の二世王である道祖王を皇太子にするとの遺言を残して崩御した。宝算56。戒名は勝満である。758年に「勝宝感神聖武皇帝」と諡され、のちに聖武天皇と呼ばれるようになった。七七忌に際し、光明皇后は遺愛の品を東大寺の大仏に奉献し、その一部は正倉院に伝わっている。陵は奈良市法蓮町の佐保山南陵に治定されている。
同じ年に亡くなった人物
- アイストゥルフ (756年没)
- 楊貴妃 (756年没)
- Kormisosh of Bulgaria (756年没)
- ユースフ・アルフィフリー (756年没)
- Abd al-Hamid al-Katib (756年)