伝記
聖徳太子は、古墳時代後期から飛鳥時代にかけての皇族・政治家である。用明天皇の第二皇子で、母は欽明天皇の皇女の穴穂部間人皇女。本名は厩戸王、厩戸皇子ともいわれるが、確かなことは分からない。「聖徳太子」の名は、死後の天平勝宝3年(751年)に編まれた『懐風藻』の序に初めて見えるとされる。敏達天皇3年(574年)、現在の奈良県明日香村に生まれた。父も母も欽明天皇の子で、それぞれ蘇我稲目の娘を母とするため、蘇我氏と深い血縁で結ばれていた。幼いころから聡明で仏法を尊んだと伝えられ、多くの逸話や伝説が残る。
用明天皇が亡くなった用明天皇2年(587年)、崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋の対立は、皇位をめぐる争いに発展した。馬子は諸豪族や諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こし、厩戸皇子もこれに加わった。討伐軍は稲城を築いた物部の兵に三度退けられたが、皇子は白膠の木で四天王の像をつくり、勝てば仏塔を建てて仏法の広めに努めると誓った。守屋は迹見赤檮に射殺され、物部氏は没落した(丁未の変)。のち崇峻天皇が馬子に暗殺されると、推古天皇元年(593年)に馬子は豊御食炊屋姫を皇位につけた。皇室史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子となり、馬子とともに天皇を補佐した。
同じ年、皇子は誓願を守って摂津国難波に四天王寺を建立した。推古天皇2年(594年)に仏教興隆の詔を発し、3年には高句麗の僧慧慈が渡来して太子の師となり、隋が官制の整った強大な国で仏法を篤く保護していると伝えた。600年には新羅征討の軍を出し、602年にも同母弟の来目皇子を将軍に2万5千の軍衆を筑紫に集めたが、来目皇子が渡海の準備中に亡くなり、後任の当麻皇子も妻の死を理由に引き揚げて、遠征は中止された。601年には斑鳩宮を造営し、605年にそこへ移り住んだ。
政治の面では、推古天皇11年(603年)に冠位十二階を定め、氏姓ではなく才能を基準に人材を登用して、天皇の中央集権を強めようとしたといわれる。翌年4月には十七条憲法を制定し、豪族たちに臣下の心構えを示して、天皇に従い仏法を敬うことを強調した。607年には小野妹子らを使者として隋に国書を送り、翌年に隋からの返礼の使者の裴世清が訪れた。返書には「東の天皇、西の皇帝に敬いて白す」とあり、隋が「倭皇」とした箇所は「東天皇」とされた。妹子は高向玄理・南淵請安・旻ら留学生とともに再び隋へ派遣された。国内では高市池や藤原池などの池を作り、613年には難波から飛鳥までの大道を築いた。これは日本最古の官道で、現在の竹内街道とほぼ重なるという。614年には犬上御田鍬らが隋へ遣わされ、これが最後の遣隋使となった。
仏教を厚く信仰した皇子は、『法華義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』を著したと伝えられ、これらは三経義疏と総称される。620年には馬子と議して『国記』『天皇記』などを編纂した。推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた皇子の回復を祈っていた妃の膳大郎女が2月21日に亡くなり、その後を追うように翌22日に皇子も世を去った。享年49。『日本書紀』では、この死は推古天皇29年(621年)2月5日とされる。死後には数多くの伝説が生まれ、記紀の記述には脚色もあるとみられている。平安時代の『聖徳太子伝暦』はそうした伝説を集大成したものであり、後世には太子自身が日本の仏教で尊崇の対象となった。