伝記
楊貴妃は、中国唐代の皇妃である。姓は楊、名は玉環といい、貴妃は皇妃の順位を表す称号である。玄宗皇帝の寵姫で、玄宗が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられ、傾国の美女と呼ばれる。古代中国四大美人の一人とされ、当時の理想とされた豊満な姿態をもち、琵琶をはじめとする音楽や舞踊にも才があったという。
蜀州の出身で、本籍は蒲州永楽県とされる。蜀州司戸の楊玄琰の四女で、姉に、のちの韓国夫人・虢国夫人・秦国夫人がいる。幼いころに両親を失い、叔父の楊玄璬の家で育てられた。735年、玄宗と武恵妃のあいだの子である寿王李瑁の妃となった。740年、玄宗に見初められ、長安の東にある温泉宮で一時的に女道士となり、太真の道号を名乗った。息子から妻を奪う形になるのを避けるための措置で、実質は内縁関係にあったといわれる。その後は宮中の太真宮に移り、後宮に入って皇后と同じ扱いを受けた。容貌が美しく、音楽や歌舞に優れ利発であったため玄宗の意にかない、後宮の人々からは「娘子」と呼ばれた。
745年、貴妃に冊立された。父の楊玄琰は兵部尚書、母の李氏は涼国夫人に追贈され、叔父や従兄たちも官職を与えられ、従兄の楊錡は玄宗の愛娘である太華公主と婚姻を結んだ。楊一族の権勢は盛んで、官庁は一族の依頼を詔に対するかのように扱ったと伝えられる。746年には嫉妬から玄宗の意に逆らって楊銛の屋敷に送り返されたが、玄宗はその日のうちに不機嫌になった。高力士のとりなしで彼女は夜のうちに後宮へ戻り、以後さらに寵愛を独占するようになった。750年にも玄宗の機嫌を損ねて屋敷へ送り返されたが、髪の毛を切って玄宗に贈ると、玄宗は驚いて呼び戻させた。范陽・平盧節度使の安禄山を養子にした逸話も残る。752年に李林甫が死ぬと従兄の楊国忠が大権を握り、外征の失敗や安禄山との対立を深め、楊一族は多くの恨みを買った。
755年、楊国忠と激しく対立した安禄山が反乱を起こし、洛陽が陥落した。これが安史の乱である。玄宗が親征を決意した際には、楊国忠や姉たちの説得を受けた彼女が、土を口に含んで自らの死を請い、思いとどまらせたと伝えられる。翌756年、潼関が陥落し、6月に玄宗は長安を出て蜀へ向かい、楊貴妃や楊国忠、高力士らが同行した。馬嵬に着くと、楊国忠を憎んでいた陳玄礼と兵士たちが楊国忠と韓国夫人らを殺害し、さらに「賊の本」として楊貴妃の殺害を玄宗に求めた。玄宗は「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」とかばったが、高力士の進言でやむなく自殺を命じた。伝えによれば、彼女は「最後に仏を拝ませてほしい」と言い残し、高力士によって縊死させられた。遺体は郊外に埋められた。のちに玄宗は長安に帰ると改葬を命じたが、反対意見で中止となり、密かに宦官に命じて改葬させたという。
磬の名手で、梨園の楽人もかなわなかったといい、玄宗が宦官を、彼女が宮女を率いて戦争ごっこの「風流陣」を行ったという説話もある。755年6月の彼女の誕生日には、華清宮で新曲が演奏され、南海からライチが届いたため「茘枝香」と名づけられた。ライチを好み、産地の嶺南から都まで早馬で運ばせたという逸話も有名で、後世に大きな影響を与えた。玄宗は画工に彼女の絵を描かせ、朝夕眺めていたという。死後約50年を経た806年ごろ、玄宗と楊貴妃の物語を題材に、白居易が長編の漢詩『長恨歌』を、陳鴻が小説『長恨歌伝』を作った。
同じ年に亡くなった人物
- Kormisosh of Bulgaria (756年没)
- アイストゥルフ (756年没)
- Abd al-Hamid al-Katib (756年)
- クスレッド (ウェセックス王) (756年)
- ウナール1世 (756年没)