HISTORICAL PERSON · 703年没

持統天皇

天智天皇の娘で天武天皇の皇后。壬申の乱では夫に従い、政事の助言で天武を支えた。天武の没後に即位した第41代天皇で、史上3人目の女性天皇。「日本」の国号を定めた可能性が高いとされる。

生涯
703年没
死亡地
日本(奈良県 / 藤原京)
出生地
—
出典
世界地図
日本(奈良県)

伝記

持統天皇(645年〜703年1月13日)は、日本の第41代天皇で、在位は690年から697年。史上3人目の女性天皇である。天智天皇の娘で、天武天皇の皇后となり、夫の死後に自ら即位した。諱は鸕野讃良(うののさらら)。父は天智天皇(中大兄皇子)、母は遠智娘で、母方の祖父は蘇我倉山田石川麻呂である。同じ父母から生まれた姉に大田皇女がいた。649年、祖父は誣告によって中大兄皇子に攻められて自殺した。

657年、13歳で叔父の大海人皇子(のちの天武天皇)に嫁した。中大兄皇子は大田皇女、大江皇女、新田部皇女を含む4人の娘を弟に与えた。661年には夫とともに斉明天皇に従って九州まで赴き、翌年、筑紫の娜大津で草壁皇子を産んだ。大田皇女は667年以前に亡くなり、鸕野讃良は大海人皇子の妻のなかでもっとも身分の高い人となった。671年に大海人皇子が吉野に隠棲した際は、草壁皇子を連れて従った。翌年の壬申の乱では、草壁皇子と忍壁皇子を連れて夫とともに美濃へ向かう強行軍をしたが、疲労のため桑名にとどまった。それでも『日本書紀』には夫と「ともに謀を定め」たとあり、挙兵の計画に加わったことが知られる。

乱に勝った大海人皇子が天武天皇として即位すると、皇后に立てられた。皇后は常に天皇を助け、政事について助言したという。679年には、天皇と皇后が6人の皇子を伴って吉野の盟約を交わした。皇子たちは互いに争わず協力することを誓い、天皇、ついで皇后が彼らを抱擁した。681年に律令の編纂開始と19歳の草壁皇子の立太子が告げられ、685年ごろから天皇が病がちになると、皇后が統治者としての存在感を高めた。686年7月、天皇は天下のことは大小を問わず皇后と皇太子に報告せよと命じた。同年9月に天武天皇が崩御すると、翌月に大津皇子の謀反が発覚し、皇子は自害した。具体的な計画は史書に記されず、皇后が先手を打ってライバルを退けたとみる説も多い。689年4月には草壁皇子が病で亡くなった。孫の軽皇子は7歳と幼かったため、鸕野讃良は自ら即位することにし、その前年に飛鳥浄御原令を施行した。

690年の即位は、群臣の推戴によらず、神祇官が天つ神の寿詞を読み上げ、公卿が拝礼して手を打つ新しい形をとり、天皇の権威の高まりを示すとみられている。即位後は大赦を行い、高市皇子を太政大臣、多治比島を右大臣に任じて、大臣を置かなかった天武朝の皇親政治を改めた。治世の柱は飛鳥浄御原令の制定と藤原京の造営で、庚寅年(690年)に戸籍を作った。民には老人や貧民への施しや調の半減などで臨み、柿本人麻呂に天皇をたたえる歌を作らせた。692年には、農事の妨げになるという三輪高市麻呂の諫めを押し切って伊勢へ行幸し、頻繁に吉野にも赴いた。夫が建立を思い立った薬師寺も完成させた。外交では新羅と通交し、唐とは公的な関係を持たなかった。唐に抑留された大伴部博麻の忠誠にも報いた。

高市皇子が696年に亡くなったのち、697年2月に軽皇子が皇太子となり、8月1日に15歳の軽皇子へ譲位した。文武天皇である。持統は初の太上天皇となり、並んで政務を執った。大宝律令にも彼女の意思が関わったと考えられる。701年には吉野へ赴き、翌年は三河まで足を延ばし、壬申の乱での功労ある地方豪族をねぎらった。帰京の翌月、大宝2年12月13日に病を発し、22日に崩御した。58歳であった。1年間の殯ののち火葬され、703年12月17日の火葬の際に「大倭根子天之廣野日女尊」の和風諡号が贈られた。

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