伝記
ユースフ・アルフィフリーは、アブド・アッラフマーン1世が実権を握る直前の、アンダルスにおける最後の総督である。747年から756年までアンダルスを支配し、750年にウマイヤ朝が滅亡したのちは独立勢力としてふるまったが、アブド・アッラフマーン1世に敗れた。没年は759年ごろといわれる。
ユースフは691年ごろ、軍営都市カイラワーンに生まれた。カイラワーンを建設したウクバ・イブン・ナーフィウの曾孫にあたる。父系の属するフィフル部族はイエメンの名門アラブ部族で、ウクバの子孫たちは「フィフル族の者」を意味するアルフィフリーを称し、イベリア半島(アンダルス)と北アフリカ北西部(マグリブ)の征服活動に加わった。ムーサー・イブン・ヌサイルのアンダルス征服に参加したのはウクバの孫の世代で、ユースフの父アブド・アッラフマーンとその兄弟ハビーブはともにアンダルスへ渡り、のちにカイラワーンへ戻った。ユースフはカイラワーンで育ったが、父が戻ると折り合いが悪くなり、押し出されるようにアンダルスへ渡った。時期はビシュル・イブン・サフワーンが統治していた721年から727年の間とされる。
『モワサックの年代記』によれば、ユースフはトゥール・ポワティエ間の戦いののちにナルボンヌの長官に任じられた。ここでローヌ川下流域を荒らし、735年にアルルを占領したとされる。716年から756年までのアンダルスは、ダマスカスから送られた代官か、ウマイヤ朝の勧告を受けたイフリーキヤの長官によって統治されていた。前任者たちと同様に、ユースフも、支持基盤であるベルベル人とアラブ人の内部抗争や、アラブ人内の長い氏族間抗争に悩まされた。
739年から743年のベルベル反乱をはじめ、アンダルスは極めて不安定な時期を迎えた。その混乱を乗り越えた747年にアンダルスの長官に就任した。有力な諸派のあいだでは統治を交代で担う取り決めがあったともいわれるが、任期が終わってもユースフは権力を手放さず、ダマスカスでウマイヤ家がアッバース家に倒された750年以後も、九年にわたって対抗者なく統治したと伝えられる。ユースフは、長官というより王に相当する存在だったと指摘されることもある。最高統治者となると人口調査を行い、ホステゲシス司教が租税と人頭税の納税者の一覧を作成したとされる。司教たちは、税が確実に収められたか確かめるため、毎年ユースフのもとを訪れさせられた。
755年、ユースフはサラゴサで起きた反乱を鎮圧し、パンプローナのバスク人を討つために遠征隊を送ったが、この部隊は全滅した。そのころ南からは、アッバース家によるウマイヤ家の虐殺を逃れ、北アフリカのベルベル人の支持を得たアブド・アッラフマーン1世がアンダルスに侵攻しており、南海岸はすでに彼の手に落ちていた。ユースフは南へ引き返し、マラガやセビーリャなどの要塞の奪回に向かった。イスラーム軍はユースフ派とアブド・アッラフマーン派に分裂し、大まかにいえば、イエメン族の部隊が後者につき、ムダル族やカイス族はユースフに忠実であり続けた。ユースフはこのウマイヤ家の末裔を後継者とすることで折り合おうとしたが、交渉は決裂した。756年、両軍はコルドバ近郊で激突した。このムサーラの戦いでユースフは敗れて失脚し、アブド・アッラフマーン1世が最初の独立したアンダルス政権である後ウマイヤ朝を建てた。ユースフはかろうじて戦場を脱して北へ逃れ、セビーリャの奪回を図ったが失敗した。トレドへ退く途中で殺されたとも、トレドの要塞に二、三年立てこもったのち配下に殺害されたともいわれる。
同じ年に亡くなった人物
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- Kormisosh of Bulgaria (756年没)
- Abd al-Hamid al-Katib (756年)
- ガッラ・ガウロ (756年)
- アイストゥルフ (756年没)
同じ地域に関係する人物
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- プブリウス・コルネリウス・スキピオ (紀元前211年没)
- クレモナのジェラルド (1187年没)
- フアン・アントニオ・ビジャカーニャス (2001年没)
- Isidro Goma y Tomas (1940年没)