伝記
ジョゼフ・フーリエは、フランスの数学者であり、物理学者である。1768年3月21日にオセールで生まれ、1830年5月16日に没した。固体内の熱伝導の研究から熱伝導方程式を導き、これを解くためにフーリエ解析と呼ばれる理論を展開した。
仕立職人の9番目の息子として生まれ、8歳で父を亡くして孤児となり、地元のベネディクト派の司教に預けられた。1780年に司教はフーリエを、同派の僧侶が経営する王立陸軍士官学校に入学させた。早くから数学に興味を示し、夜中に蝋燭の燃えさしを集めて一人で勉強し、ベズーの『数学教程』を1年で読破したという。身分の低さから軍人にはなれず、卒業後は僧侶たちの勧めで修道院に入ったが、修道院でも数学の勉強を続けた。1789年、『数値方程式の解法に関する論文』を発表するためパリへ向かい、そこでフランス革命に遭遇した。身分の制約から解放され、故郷の友人たちの計らいで数学の教師になった。革命を支持して委員会に加わったが、抗争に巻き込まれて逮捕された。
1794年に新設の高等師範学校に第一期生として入学した。翌年に学校が一時閉鎖されると、才能を認められてラグランジュやモンジュのもとでエコール・ポリテクニークの助講師となり、のち解析数学の教授になった。この講義の中で、代数方程式の実数解の個数に関するフーリエの定理を証明した。1798年、ナポレオンがエジプトに遠征したとき、文化使節団の一員に選ばれてモンジュらとともに随行した。新設の学士院の書記として、さまざまな数学的、考古学的研究を行い、のちの『エジプト誌』も監修した。ナポレオンがフランスへ逃げ帰ったとき、多くの将兵とともにエジプトに取り残され、帰国したのは1801年であった。このエジプト滞在中に、寒さと湿気を嫌い、砂漠のような熱気と乾燥が思索には必要だと考えるようになった。四六時中、部屋を蒸し暑くして、全身を真綿と包帯で巻く習慣が心臓に負担をかけ、死期を早めたという。
帰国後は、エジプトでの行政手腕をナポレオンに認められ、1802年1月2日にイゼール県の知事に任命された。治安の回復、道路の建設、沼沢地の干拓などを行い、1808年に男爵に叙された。グルノーブルで知事を務めた時代は、生涯でもっとも精力的に活動した時期で、多忙な職務のかたわら、固体内の熱伝導を数学的に研究した。最初の論文は1807年に科学アカデミーに提出されたが、ラプラスとラグランジュがフーリエ級数の正当性を疑い、掲載は見送られた。しかし有望さから、1812年の懸賞論文の題目が「熱の解析的理論」とされ、大幅に加筆した第二論文がアカデミー大賞を受賞した。この論文はオームの法則や、解析学の一分野に大きな影響を与えた。エジプトから持ち帰った史料のロゼッタ・ストーンを、サロンに出入りしていた12歳のシャンポリオンに初めて見せたのもフーリエだった。
1815年にナポレオンがエルバ島を脱出すると、フーリエは自ら王党派に通報したが信じてもらえず、グルノーブルへ戻ると占領されていた。ナポレオンに従ってローヌ県知事に任命されたが、強権的な姿勢に反対して辞職した。復位したルイ18世は裏切りを許さず罷免された。のち、友人の計らいでセーヌ県統計局長の職を得た。1816年にアカデミーは彼を会員に推薦したが、ルイ18世が認めず、翌年に会員に選出された。1822年には終身幹事となり、1826年にはアカデミー・フランセーズの会員になった。晩年は過去の研究をまとめ、後進の指導にも力を注いだ。1830年、63歳で息を引き取った。心臓病とも動脈瘤ともいう。
同じ年に亡くなった人物
- イグナーツ・シュパンツィヒ (1830年没)
- カール・フレドリック・ファーレン (1830年没)
- ウィリアム・ヘイズリット (1830年没)
- アントニオ・ホセ・デ・スクレ (1830年没)
- シャルル・シモン・カテル (1830年没)
同じ地域に関係する人物
- ユベール・ド・ジバンシィ (2018年没)
- ジョルジュ・キュヴィエ (1832年没)
- フランソワ・ラブレー (1553年没)
- ジャック・ドリル (1813年没)
- クレマンティーヌ=エレーヌ・デュフォー (1937年没)