伝記
ウィリアム・ヘイズリットは、イギリスの著作家であり、批評家、随想作家である。ウィリアム・ハズリットとも表記される。1778年4月10日に生まれ、1830年9月18日に没した。現在では英語圏の歴史上最も優れた批評家、随筆家の一人と見なされ、同時代で最も優れた美術批評家ともされる。ただし、作品は今ではあまり読まれず、多くが絶版になっている。
父は同名のウィリアムで、アイルランドの長老派の家系に生まれ、グラスゴー大学でアダム・スミスに教わった。長老派の信仰に満足せず、イングランドでユニテリアン派の牧師になった。ケント州のメイドストンで、牧師の末の子として生まれた。育った子供のうち三人だけが成人し、長兄ジョンは肖像画家となった。1780年、2歳のとき、一家は放浪の暮らしを始めた。父はアイルランドへ引退したが、アメリカ独立戦争における植民地側の大義に共鳴し、1783年に家族を連れて独立したばかりのアメリカ合衆国に渡った。そこで説教や講演をして、自由主義的な会衆の牧師の職を求めたが、実を結ばなかった。ボストンの最初のユニテリアン教会の設立にはある程度の影響を及ぼしたという。1787年ごろイギリスに戻り、シュロップシャーのウェムに落ち着いた。ヘイズリット自身は、アメリカの記憶をほとんど残さず、ただメギの実の味だけを覚えていた。
父や兄から教育を受け、ラテン語や絵画の習得に励んだ。13歳のとき、ジョゼフ・プリーストリーがフランス革命を支持したことを理由とするバーミンガムの暴動を非難した手紙が、地元紙に載り、初めて自分の文章が活字になった。1793年にロンドンのハックニーにあるユニテリアン派のニュー・カレッジに入学した。ギリシア・ラテンの古典、数学、歴史、政治、科学、宗教と幅広い課程で、プリーストリーも教師の一人であった。父への敬意から信仰を公然とは捨てなかったが、信仰を失い、牧師になるための修業を終える前に学校を去った。その後は、イギリスやフランスの哲学書、セルバンテスやボッカチオ、ラブレー、モンテーニュなどの古典を読みふけった。特に愛好したのは、エドマンド・バークとルソーである。
1798年1月にウェムを訪れた詩人コールリッジに会い、ワーズワース兄妹を訪れたのは特筆すべき出来事であった。同年12月、パリからもたらされた名画がロンドンで陳列され、ティツィアーノ、ラファエロ、ルーベンス、レンブラントらの原作に接した。1804年までは肖像画家としての修業に専念した。チャールズ・ラムとは終生の交わりを結んだ。1808年に姉の友人サラ・ストッダートと結婚したが、1819年に別居し、1823年に離婚した。翌年には未亡人のイサベラ・ブリッジウォーターと結婚したが、この女性とも別れた。
1811年にロンドンでイギリス哲学に関する連続講演を催して名を知られるようになり、下院の傍聴席で議会報告を書いて新聞に載せるのが、ジャーナリストとしての最初の仕事となった。以後は政治記者、劇評記者、美術評論家として認められ、『エディンバラ評論』『イグザミナー』『チャンピオン』などに批評やエッセイを寄せ、講演も活発に行った。主な著作に、『シェイクスピア劇の登場人物』『イギリス詩人論』『時代の精神』などがある。1826年から1830年まで、ナポレオンの伝記の編纂に従事した。晩年は貧困と孤独に悩まされながらも執筆を続け、息子のウィリアムとラムに看取られて52歳で没した。最期に「まあ、幸せな人生だったな」と言い残したという。
同じ年に亡くなった人物
- シャルル・シモン・カテル (1830年没)
- トーマス・ローレンス (画家) (1830年没)
- ピウス8世 (ローマ教皇) (1830年没)
- カール・フレドリック・ファーレン (1830年没)
- ジョージ4世 (イギリス王) (1830年没)
同じ地域に関係する人物
- リチャード・ノーマン・ショウ (1912年没)
- アルフレッド・ラドクリフ=ブラウン (1955年没)
- ブルース・フレーザー (1981年没)
- トマス・キャンピオン (1620年没)
- フレデリック・レイトン (1896年没)