伝記
アントニオ・ホセ・デ・スクレは、南アメリカの諸国をスペインからの独立に導いた軍人であり、政治家である。1795年2月3日にベネズエラ東部のクマナで生まれ、1830年6月4日に暗殺された。ボリビアの事実上の初代大統領であり、シモン・ボリバルの部下かつ良き理解者としても知られる。
代々軍人の家系で、父はビセンテ・デ・スクレ、母はマリア・マヌエラ・デ・アルカラである。幼くして母を亡くし、子供のころから軍事教育を受けて、要塞建築と砲術の知識を身に付けた。1811年にスペインに対する独立戦争が起こると、15歳で独立軍に参加し、ミランダの下で戦った。ミランダが敗れた後もボリバルの指揮下などで戦ったが、敗れてたびたびカリブ海の島々に退き、ハイチにも逃れた。この間に王党派は、スクレの2人の兄弟を捕らえて銃殺した。1816年に再びグイリアに上陸し、参謀長として東部の戦線で戦い、1817年5月に大佐、1819年8月に准将に昇進した。
ボリバルは、やがてスクレの兵站の才を認めて、軍中随一の将才と考え、自分のいない戦線を任せるようになった。1820年のスペイン軍との休戦交渉では、使節団を率いた。この休戦がトルヒリョで取り交わされたとき、両軍は戦争を文明的に行うため、捕虜と民間人の保護を約する「戦争規制条約」を結んだ。それまでは互いに捕虜を銃殺する死闘が続いていた。近代の戦時国際法の源流の一つとされるこの条約の起草者は、スクレと目されている。
エクアドルのグアヤキルで蜂起した独立派が援兵を求めたとき、ボリバルはカラカス方面への攻勢を計画していた。ボリバルはスクレに小兵力を与えて救援させ、スクレは650の兵とともに1821年5月にグアヤキルに着いた。8月のヤグアチの戦いでスペイン軍を各個撃破したが、追撃は頓挫し、休戦した。1822年にはボリバルの本格進攻に呼応して攻勢に出た。5月に深夜のキトの前面を横切って陣取り、援軍の道を遮断し、スペイン軍は山に向けて攻撃を行い惨敗した。翌日、スクレは総督の降伏を受け入れ、6月18日に少将に昇進した。
1823年にはペルーの独立派を援けるため、先遣隊6000を率いて向かった。ペルー南部のサンタクルスの救援に向かったが、兵力を失わずにリマに帰った。同年9月にボリバルがペルーに到着し、全軍の司令官に任じられたが、実際の役割は参謀長であった。1824年8月のフニンの戦いは、ボリバルの騎兵戦で大勝し、歩兵を指揮するスクレの出る幕はなかった。ラセルナ副王は大兵力を結集して攻勢に出たが、スクレは1か月ひたすら退却を続け、追い詰められてアヤクーチョの盆地に布陣した。12月9日のアヤクーチョの戦いで、少数の連合軍が決定的勝利をおさめ、副王以下の将兵はみな降伏した。南アメリカのスペイン領の独立は、この一戦で最終的に決まった。ボリバルは12月26日にスクレを大元帥に任命した。
1825年4月に高地ペルーの王党派の掃討を完了し、8月6日、同地の議会はボリバルの功績を称え、新しい国の名をボリビアと決めた。スクレは1826年に大統領に選ばれたが、余所者を疎んじる現地の政治家がおり、ペルーの動きもあって不人気となり、1828年に辞任して去った。妻の待つキトで暮らしたが、同年ペルーがエクアドルの領有をねらって軍を集結させたため、再び指揮を取り、1829年2月27日の戦いでペルー軍を壊滅させた。1830年1月に発足した議会で国会議長になった。同年6月4日、帰郷の旅の途中、森の中で待ち伏せていた暗殺者に狙撃され、頭に弾を受けて即死した。
同じ年に亡くなった人物
- トーマス・ローレンス (画家) (1830年没)
- ウィリアム・ヘイズリット (1830年没)
- エリザベス・モンロー (1830年没)
- シモン・ボリバル (1830年没)
- ルイ=フィリップ・ド・セギュール (1830年没)
同じ地域に関係する人物
- フリオ・セサル・トゥルバイ・アヤラ (2005年没)
- カルロス・オルメス・トルヒジョ (2021年没)
- アルフォンソ・ロペス・ミケルセン (2007年没)
- ニコラス・ゴメス・ダビラ (1994年没)
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