伝記
フランソワ・ラブレーは、フランス・ルネサンスを代表する人文主義者、作家、医師である。ヒポクラテスの医書の研究で名を知られ、のちに中世の巨人伝説を題材に騎士道物語をパロディーにした『ガルガンチュワ物語』と『パンタグリュエル物語』で知られるようになった。これらは糞尿譚から古典の膨大な知識までを散りばめ、ソルボンヌや教会といった既成の権威を風刺する内容を含んでいたため、禁書とされた。経歴には不明な点が多く、1483年頃の生まれとする推測が有力である。
中部フランスのロワール川流域、シノン近郊の村で、法服貴族出身でシノン裁判所付きの弁護士であり地主でもあった父アントワーヌの三男として生まれた。ベネディクト会修道院で初等教育を受け、1511年頃にラ・ボーメットのフランチェスコ会修道院に入る。1520年頃にはフォントネー=ル=コントの修道院で哲学、神学、ギリシア語を学び、法学者アンドレ・チラコーのサークルにも出入りした。しかしギリシア語習得への逆風が強く、マイユゼのベネディクト会修道院に転籍している。1524年にはチラコーの著作に「チラコー讃」を寄せ、この頃ヘロドトス『歴史』のラテン語訳も試みた。1528年から30年頃はパリに滞在し、2児をもうけたとみられる。
1530年にモンペリエ大学医学部に入って得業士となり、翌年にはヒポクラテスの『箴言集』とガレノスの『医術について』を、ラテン語ではなくギリシア語の原典で講じて多くの聴講者を集めた。1532年にはヒポクラテスとガレノスのラテン語訳を出版の盛んなリヨンから刊行し、リヨン市立慈善病院の医師として勤め始める。同じ頃、作者不明の短い物語『ガルガンチュワ大年代記』が評判となったのを受け、その続編の形式で、ガルガンチュワの息子として設定したパンタグリュエルの物語を、本名のアナグラムであるアルコフリバス・ナジェの筆名で世に出した。当時まだ未発達だったフランス語で書かれた作品である。続いて占星術を茶化した小冊子も発行した。
1534年にはフランソワ1世の重臣ジャン・デュ・ベレーの知遇を得て、侍医としてローマに同行した。この年、檄文事件により身の危険を感じて一時姿をくらましたが、1535年にイタリアで、還俗して医学の道に進んだことの赦免を教皇パウルス3世に願い出て認められた。1537年にモンペリエ大学で医学博士号を取り、1538年にはフランソワ1世とカール5世の会談に立ち会っている。1542年には批判を和らげた改訂版を出したが、両書は翌1543年に禁書目録へ載せられた。1546年には『第三の書』を本名で出版し、国王の特認を得たものの、これも禁書目録の増補版に入れられたため、ロレーヌ地方のメスに逃れて市の医師を務めた。その後デュ・ベレーに懇願して政界に復帰している。
1548年にはローマへ向かうデュ・ベレーに同行し、その途中で『第四の書』の未完成原稿がリヨンの出版社から出てしまった。1550年にはオデ・ド・シャチヨン枢機卿の尽力で、自著の出版を10年間認める国王アンリ2世の特認を得て、1552年に完全版をパリで出版する。1551年にはムードンのサン=マルタンの司祭職を与えられたが、他人に貸して自らは就かなかった。1553年に死去し、パリのサン=ポール教会に埋葬されたとされるが、墓地は現存しない。死後の1564年に出た『第五の書』は、本当にラブレーの作品かどうか議論がある。エラスムスには深い敬愛を寄せ、後にカルヴァンからはリベルタンとして批判された。
同じ年に亡くなった人物
- ジローラモ・フラカストロ (1553年没)
- シェフザーデ・ジハンギル (1553年没)
- エルンスト (バーデン=ドゥルラハ辺境伯) (1553年没)
- Pedro Alvarez de Toledo, Marquis of Villafranca (1553年没)
- ジョヴァンニ・サルヴィアーティ (1553年)
同じ地域に関係する人物
- ベルナール・パリッシー (1590年没)
- シドニー・スミス (軍人) (1840年没)
- リオネル・ロワイヤル (1926年没)
- アンリ・ワロン (1962年没)
- エミール・ギルマン (1907年没)