伝記
テオド2世(テオドとも)は、およそ625年に生まれ、716年12月11日ごろに没したバイエルン公である。アギロルフィング家の一員で、670年、あるいはより確からしくは680年から死去まで公位にあった。バイエルンの史料に裏づけられた歴史は、このテオドから始まるとされる。フライジングのアルベオは、彼を国外にまで名の聞こえた強大な支配者として伝えている。出自は確定していない。父はおそらく680年に没したバイエルン公テオド4世、母はおそらくランゴバルド王の娘であるファラとされる。なお、680年ごろに在位した公をテオド1世、8世紀初めの公をテオド2世と区別する歴史家もいる。前者は聖エンメラムやウタ、ラントペルトにまつわる出来事と、後者は聖コルビニアンや聖ルペルト、教会組織の整備や公国の分割と結びつけられる。だが同時代の史料には、そうした区別を示すものはない。また、バイエルンの伝承では、伝説上の祖先のテオド1世から3世と区別するため、テオド4世・5世と呼ぶこともある。
テオドはラティスボナ(現在のレーゲンスブルク)に都を置いた。外交面では、アウストラシアのフランク貴族の娘フォルカイドと結婚して結びつきを築いた。ただし、ルネサンス期の歴史家たちはレギントルードという妻を挙げており、ザルツブルクの聖ペーター修道院の記念帳にはフォルカイドの名しか見えない。ランゴバルドの内紛にも介入し、亡命してきたアンスプランドとリウトプランドをかくまい、二人が王位を求めて帰国する際には軍事的に支援した。のちにリウトプランドはテオドの娘グントルードを妻に迎えた。東方のアヴァール人からは公国をよく守ったが、東部ではいくらか失敗もあったとされる。
宗教面では、バイエルンの四大宣教者である聖ルペルト、聖エルハルト、聖エンメラム、そしておそらく聖コルビニアンの庇護者となった。バイエルンの教会組織の構想を初めて描いた人物でもあり、農村の開拓を深めるとともに、教皇との結びつきを強めてフランク王国からの独立性を高めることを目指した。司教座は公の居所でもあった数少ない都市、すなわちレーゲンスブルク、ザルツブルク、フライジング、パッサウに置かれた。716年にはバイエルン公として初めてローマへ赴き、教皇グレゴリウス2世と会談している。
聖エンメラムの死には、テオドの二人の子がかかわったと伝えられる。娘ウタが恋人の子を身ごもり、父の怒りを恐れてエンメラムに打ち明けると、聖人はローマへ旅立つところだったため、自分が責めを負うと約束した。出発後にウタの妊娠が知られ、約束どおり彼女はエンメラムの名を挙げた。兄弟のラントペルトは聖人を追い、「司教にして義兄弟」と呼びかけたうえで、その体を切り裂かせた。テオドは遺骸をレーゲンスブルクへ移させた。ラントペルトとウタについては、これ以上のことは分かっていない。
テオドは公国を、715年より前のいつかに息子たちの間で分けた。長男テオドベルトは702年にはすでにザルツブルクから統治していたとされ、711年か712年からは父の共同統治者となった。ほかの子には、レーゲンスブルクのテオバルト、パッサウのタッシロ2世、フライジングのグリモアルトがいるとされる。この分割が領土の分割だったのか単なる共同統治だったのかは分からず、各人の所在地も推測の域を出ない。ほかに、アレマニア公ゴトフリトに嫁いだ娘もいた。テオドの死後、公位は息子たちが継いだ。