伝記
好太王は、高句麗の第19代の王で、374年に生まれ、412年に39歳で没した(413年没とする記述もある)。姓は高、諱は談徳(タムドク)という。先代の故国壌王の子で、386年に太子に立てられ、先王の死とともに辛卯年(391年)に王位に就いた。即位年は、碑文では391年とされる一方、『三国史記』や『三国遺事』では392年とされ、1年の違いがある。鮮卑の前燕の攻撃を受けて衰退していた高句麗を立て直し、領土を大きく広げた王である。
正式な諡は國岡上廣開土境平安好太王といい、韓国では広開土王、広開土大王とも呼ばれる。在位中に永楽の年号を使ったことから、永楽大王とも呼ばれる。独自の年号を用いたことは、中国の諸国と対等であることを示すとされる。生まれた当時の高句麗は、371年に百済の近肖古王に敗れて故国原王を殺されたばかりで、国力が衰えていた。百済は当時東アジアの有力国となり、影響は半島にとどまらなかった。高句麗は百済に囲まれ、前秦、鮮卑、柔然との関係を育てつつ、将来の侵攻に備えていた。続く小獣林王や故国壌王は、国の立て直しに力を注いだ。
好太王は即位の初めから百済に対して攻勢に出た。392年には自ら軍を率い、騎兵5万で百済を攻めて石硯城など10城を奪い、関彌城を落とした。394年に水谷城を築き、395年には礼成江まで反撃してきた百済軍を破って、接する地に7城を築き防備を固めた。396年には漢江を越えて百済の58城700村を陥落させ、百済王に多数の生口や織物を差し出させ、永く従うことを誓わせた。同じ時期、自ら率いた水軍と漢江を使って百済の首都ウィリョソンを海と川の二方面から攻めたとも伝えられ、百済王の阿莘王は降伏して弟を人質に差し出したという。新羅には392年に使者を送って良い関係を保ち、高句麗の勢力を恐れた新羅からは王族の金実聖が人質として送られてきたのを受け入れた。
397年に百済の阿莘王が王子の腆支を人質として倭に送って通好すると、400年、高句麗は倭の侵攻を受けていた新羅に歩騎5万を送って救援した。倭軍は任那・加羅まで退いたという。404年には帯方の地で倭軍の攻撃を受けたが、これを撃退した。西では後燕と使節を送り合って友好を保っていたが、400年に後燕王の慕容盛が南蘇城と新城を攻めてくると反撃し、遼東城を含む遼河東岸を侵略した。407年には後燕に侵攻して6城を討ち、鎧1万領を得た。このほか392年に北方で契丹を討って男女500人を捕らえ、契丹の捕虜となっていた高句麗人1万人を連れ戻し、410年には東扶余を屈服させた。領土は西は遼河、北は開原から寧安、東は琿春、南は臨津江流域にまで至った。
内政にも力を入れ、長史・司馬・参軍などの中央官職を新設し、歴代王陵を守る守墓人の制度を定めた。393年には平壌に9寺を創建し、先代にならって仏教を奨励した。在位22年で、412年に没した。没後の高句麗は、アムール川から漢江までの広い地域を支配していたとされる。葬られた場所は伝わらないが、好太王碑が建つ吉林省集安市の将軍塚・太王陵が墓と比定されている。1880年に集安で発見された好太王碑は、414年に息子の長寿王が功績を称えて建てたもので、約1800字の漢文からなり、倭も登場するため、古代の日朝関係を知る貴重な史料である。好太王は『太王四神記』など、ドラマや宝塚歌劇の作品にも登場する。
同じ年に亡くなった人物
- アレクサンドリアのテオフィロス (412年没)
- ウルディン (412年没)
- ローマの聖アレクシウス (412年)