伝記
東明聖王は、高句麗の初代の王とされる人物である。在位は紀元前37年から紀元前19年とされ、東明王とも呼ばれる。『三国史記』によれば姓は高、諱は朱蒙または鄒牟、衆解という。新羅本紀では中牟王、『日本書紀』では仲牟王と書かれている。ただし朱蒙の生涯に関する確実な史料はほとんどなく、紀元前37年に高句麗を建国したということ以外、実際にどんな人物であったかはわからない。414年に建てられた好太王碑や、1145年に成立した『三国史記』に記録はあるものの、後者は700年以上も前の話を記しており、内容は極めて神話的である。
伝承によれば、母は河伯(鴨緑江の水神)の娘の柳花夫人である。柳花は夫余の金蛙王に出会い、天帝の子を自称する解慕漱に誘われて帰れなくなったと語ったが、金蛙は疑って彼女を部屋に閉じ込めた。すると日光が追いかけるように柳花を照らして身ごもらせ、柳花は大きな卵を産んだ。金蛙王は卵を犬や豚のそばに捨てさせたが食べず、路上に捨てれば牛馬が避け、野原に捨てれば鳥が抱いて守った。自分で割ろうとしても割れず、ついに母に返された。柳花が温め続けると卵が割れ、男の子が生まれた。それが朱蒙である。名は夫余の言葉で弓の達人を意味し、7歳で自ら弓を作って射ると百発百中だったという。
夫余の人々は、将来必ず異心を抱くとして朱蒙を排除したがったが、金蛙王はかばって馬の世話を命じた。朱蒙は駄馬をよく肥やし、駿馬には餌を与えずに痩せさせることで、王に駄馬を使わせて自分が駿馬を賜るようにした。狩りでも少ない矢で多くの獣を傷つけたため、人々は再び暗殺を企てた。陰謀を察した母の柳花に逃亡を促され、朱蒙は友の烏伊・摩離ら3人とともに夫余を出て東南へ逃れた。『魏書』では同行者は2人とされる。
淹水まで来ると橋がなく、追手が迫っていた。朱蒙が川に向かい、自分は天帝の子で河伯の外孫であると訴えると、魚や鼈が浮かんで橋となり、一行が渡り終えると橋は解けて追手は渡れなかったという。さらに進んで卒本川に至ると、土地が肥沃で要害堅固であったため、升骨城を築いて都とした。漢の建昭2年、すなわち紀元前37年に国を建てて高句麗と号した。即位直後から隣接する貊の部落に略奪や破壊を繰り返し、貊は恐れて服属した。紀元前19年5月、子の類利が母の礼氏とともに夫余から逃れてきた。朱蒙は喜んで類利を太子とした。同年9月、40歳で死去して龍山に葬られ、東明聖王の諡号を贈られた。後の瑠璃明王が類利である。
好太王碑には、始祖の鄒牟王は北夫余から来た天帝の子で、母は河伯の娘であり、卵から生まれたと刻まれている。また百済本紀によれば、朱蒙は卒本扶余で二人の子、沸流と温祚をもうけたが、夫余にいたころの先妻の子が現れたため、二人は南へ向かい、弟の温祚が慰礼城で即位して百済を建てたという。建国の年については異説が多い。実際には紀元前75年に玄菟郡が廃止された際、高句麗侯として自立したとみられている。紀元32年に高句麗侯は漢から高句麗王に昇格したが、自称としては紀元前37年に実質的な王であったと考えて問題ないとされる。東明を始祖とする伝説は夫余や百済にも見られ、百済の始祖の温祚王は、『三国史記』では朱蒙の子とされる。東明聖王の推定陵墓は平壌市力浦区域にあり、元は集安にあったものが427年の平壌遷都とともに移されたという。世界文化遺産の高句麗古墳群を構成する古墳の一つである。
同じ年に亡くなった人物
- ウェルギリウス (紀元前19年没)
- アルタヴァスデス1世 (紀元前19)
- Mithridates II of Commagene (紀元前19)
- シケリアのディオドロス (紀元前 19年)
- アルタクシアス2世 (紀元前19)